友人の家に遊びに行ったとき、ドイツ人のダンナは酔って今度はイタリア抜きでやろうじゃないかと言い古された冗談を言った。ドイツ人はそのような冗談を言うと聞いてはいたが、本当に耳にするとは思わなかった。友人はスコットランド人、つまり連合国側だったが。
日本ややりたくて戦争をしたんじゃないと父は言い、追い込まれたのよと母は言い、そうだったのかと思って育った。
単純な、一方だけの論理など机の上以外にはない。植民地化を防いだのかもしれない。解放者を目指したのは嘘ではなかっただろう。避けるのは難しかったかもしれない。東京裁判にしても所詮勝てば官軍なのも確かだろう。しかし、頼まれもしないのに傲慢にもよその国を自分の国にし、よその国民を自分の国の労働力として重労働に従事させ、よその国の人に名前を捨てさせ、日本語を押しつけたのは日本だ。
飛行機事故だって、鉄道事故だって、10年経とうが、20年経とうが忘れられるものではない。まして、事故ではなく人為的なものであったとしたら、忘れられるだろうか。略奪され、強姦され、踏みにじられたという呪いに似た思いは早々消えはしない。中国人の戦死、行方不明者は1千万人を数える。1千万人、何という数だろう。日本の戦死、行方不明者は300万人を超えた戦争。誰が、何のために、ここまでの犠牲を強いたのか。これだけの犠牲がでたのだから、それだけを考えても責任があるのは、責任を取るのは当たり前だ。
母のお供で、靖国神社を参拝し、遊就館も拝見した。遊就館には母がもしかしたら結婚していたかもしれない人の資料が展示してある。はっきりいってそのときの私には違和感はなかった。父母がいつも言っていた通りのことが説明されていたからだ。自分たちは悪くなかった、やり方がまずかったと思っている人たちの考え方に沿って作られている神社とその附属博物館。
合祀というのは紙に名前を書いただけだという。神社がこの人は入れると決めたら合祀になる。そんなことで、神社の一存で合祀になるのなら分祀しますと言えば、簡単に分祀できる道理だろう。
中国が商売上手で、韓国が恨の国だというのはよく言われることだ。靖国を利用しているだけだというのもある程度正しいだろう。国をまとめるのに敵を作る。それは常道だし、それが外交というものじゃないのだろうか。それなら、利用されないようにするというのも外交だ。大事な周辺諸国のご機嫌を損じ、反発されると分かっていることをなにもわざわざすることはないではないか。
周辺諸国の反発を見越して同じことを繰り返すのは、よっぽど馬鹿でもないかぎり、何かの意図があるとみていいだろう。ワンフレーズで煽って大事なことは言葉にしない。
9条?核武装?言論統制?加藤元幹事長宅の放火事件を見ても、モノが言いにくい世の中になりつつあるのがよく分かる。すべてが同じ方向に向いていっているような気がする。
放火事件の後、加藤さんが「先の大戦前には政治家がモノが言えなくなっていた。言い続けることが大事なんです」と言っていた。そういうことなのだ。