あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2006年08月

友人の家に遊びに行ったとき、ドイツ人のダンナは酔って今度はイタリア抜きでやろうじゃないかと言い古された冗談を言った。ドイツ人はそのような冗談を言うと聞いてはいたが、本当に耳にするとは思わなかった。友人はスコットランド人、つまり連合国側だったが。

日本ややりたくて戦争をしたんじゃないと父は言い、追い込まれたのよと母は言い、そうだったのかと思って育った。

単純な、一方だけの論理など机の上以外にはない。植民地化を防いだのかもしれない。解放者を目指したのは嘘ではなかっただろう。避けるのは難しかったかもしれない。東京裁判にしても所詮勝てば官軍なのも確かだろう。しかし、頼まれもしないのに傲慢にもよその国を自分の国にし、よその国民を自分の国の労働力として重労働に従事させ、よその国の人に名前を捨てさせ、日本語を押しつけたのは日本だ。

飛行機事故だって、鉄道事故だって、10年経とうが、20年経とうが忘れられるものではない。まして、事故ではなく人為的なものであったとしたら、忘れられるだろうか。略奪され、強姦され、踏みにじられたという呪いに似た思いは早々消えはしない。中国人の戦死、行方不明者は1千万人を数える。1千万人、何という数だろう。日本の戦死、行方不明者は300万人を超えた戦争。誰が、何のために、ここまでの犠牲を強いたのか。これだけの犠牲がでたのだから、それだけを考えても責任があるのは、責任を取るのは当たり前だ。

母のお供で、靖国神社を参拝し、遊就館も拝見した。遊就館には母がもしかしたら結婚していたかもしれない人の資料が展示してある。はっきりいってそのときの私には違和感はなかった。父母がいつも言っていた通りのことが説明されていたからだ。自分たちは悪くなかった、やり方がまずかったと思っている人たちの考え方に沿って作られている神社とその附属博物館。

合祀というのは紙に名前を書いただけだという。神社がこの人は入れると決めたら合祀になる。そんなことで、神社の一存で合祀になるのなら分祀しますと言えば、簡単に分祀できる道理だろう。

中国が商売上手で、韓国が恨の国だというのはよく言われることだ。靖国を利用しているだけだというのもある程度正しいだろう。国をまとめるのに敵を作る。それは常道だし、それが外交というものじゃないのだろうか。それなら、利用されないようにするというのも外交だ。大事な周辺諸国のご機嫌を損じ、反発されると分かっていることをなにもわざわざすることはないではないか。

周辺諸国の反発を見越して同じことを繰り返すのは、よっぽど馬鹿でもないかぎり、何かの意図があるとみていいだろう。ワンフレーズで煽って大事なことは言葉にしない。

9条?核武装?言論統制?加藤元幹事長宅の放火事件を見ても、モノが言いにくい世の中になりつつあるのがよく分かる。すべてが同じ方向に向いていっているような気がする。

放火事件の後、加藤さんが「先の大戦前には政治家がモノが言えなくなっていた。言い続けることが大事なんです」と言っていた。そういうことなのだ。

昨日の日経新聞の夕刊に、先日坂東眞砂子さんが掲載した子猫を殺す話に抗議が殺到しているとの説明と、本人の背景説明がわざわざ掲載される騒ぎが生じている。

夕暮れいつも巡回しているブログ諸氏のところでも、みなさん一様に愛猫家、愛犬家となって憤慨しておられる。彼女は子猫だけではなく、子犬も殺しているし、その顛末も書いていた。不愉快な話だし、そもそも新聞のコラムに載せるようなネタでもない。掲載する場所の選択を間違えたところにちょっと小説家としては感受性が鈍いのではないかと思わせるところがある。ホラー小説家だそうなので、佐藤秀さんの説もありうるかもしれない。自分だけで抱えているのが重くなりすぎたのかもしれない。

犬猫どころか人間の赤ちゃんも生まれ落ちるやいなや濡れた障子紙を顔に乗せて窒息死させることが頻繁に行われていた時代が、この日本にもあったこと、いや、現代でも、命の軽さが犬猫並みに扱われている子供たちが実際にいることも考えてしまった。気持ち悪かったと赤ん坊を生み捨てて殺してしまった少女にこれほどの反響はなかったし、殺されてしまった赤ん坊にこれほどの同情は寄せられなかった。

ともあれ、命をあやめてしまうのだから、動物の子供といえども大きな声で、正当化して言うべきことではないし、それをコラムで書くのは無神経だし、ひっそりと、罪の意識を抱いておののいているべきことなのだが、田舎では今でも生まれた子猫や子犬が殺されている。

川板東さんはタヒチに在住している。都会ではない。周辺に生や死が充満しているのではないかと思う。崖から投げ捨てたというのが実に気分が悪いし、お友達にはなりたくない。それに彼女は信念として猫の避妊手術を避けたのだし、お金がないわけではないので同列にはできないが、私が家を借りている過疎地では猫の避妊手術をする人の方が少数派だ。第一、人間の医者もいないのに獣医などいようはずもない。そのまま野に放つと生態系をゆがめたり、他の家の迷惑になることが生じる。

安易なヒューマニズムで飼えなくなった動物を捨ててしまう人たちは、今回の騒動をどうみているのだろう。捨てられた動物が繁殖して、在来種が絶滅寸前になっている話はよく聞くのだが。

田舎の友人のところでは、まだ生後1年もならないうちに子猫が子猫を産んだ形となり、その子猫を殺すのは嫌だからと彼は遠くの山に子猫を捨てにいった。何とか野生となって頑張れよと、自分の手を汚さず、多分、猫を助けたつもりでいると思うが、果たして川に子猫を流したという隣人とどちらが正しいのだろう。

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最近引っ越した妹の電話番号が分からないというので、電話番号をメールしたら、母からこんな返事が来た。

「フアイルン、リンク?なんなのさ。あの番号は?わたしは83歳です」

大笑いした。

いつまでも元気でいてよ。

 じとっと一日中PCの前にいる。仕事があるのは嬉しい。嬉しいよ。私をあてにしてくれる人がいるのは嬉しいよ。でも気力がねえ。ずっとなんて続かない。多分バイオリズムの底にいてそろそろ這い上がりつつあるところなのかもしれない、と思いたい。それともマルセルさんの言う通り、そろそろ要介護の段階なのかも。きっと太陽そうだ。マルセルさん、あなたイケメン?そうなら介護をお任せしようっと。

というわけで、どういうわけじゃ。近所の医者に出かけて、御託を並べてきた。あそこが痛い、ここが痛い、調子が悪い、そして、自分で診断を下し、各種血液検査を依頼し、少々気分は上向いて帰ってきた。

あちこち調子が悪い現代人に欠かせないのは暇な医者だ。それも、文句を言わず、医療をコンサルティングの一種と心得ている優しい医者だ。勝手なことをほざいていると思うでしょう。その通り。でも病気のベテランだから、各種、医者を使い分けているのだ。重症だと判断すると大学病院や大きな病院に行く。励ましが欲しければ、暇な医者に行く。天竜川しぶき

可哀想に、イイコ、イイコなどとこの歳では、親も、もちろん娘も言ってくれない。誰も、頑張っているねなどと優しい言葉をかけてくれない。ブヒ。疲れたと言おうものなら、誰もやってくれといってない、休めばいいでしょと、跳び蹴りを喰うのが落ちだモンネ。abedcf80.jpg

検査の結果は、予想通り、新たな悪いところは、なにもない。腱鞘炎が少々と、いつもの持病。運動不足、冷房病。

涼しい窓際に座り、ぎらぎらと暑かった夏の日々を懐かしむ。濃い草いきれを想像する。皮膚を焦がす太陽と、プールの消毒液の匂い。でも、ガンとして体は動かない。6時過ぎてから、こわごわ散歩に出かけ、やけになってドーナツを食べるだけ。まったくねえ。

[文末にコメント追記あり]

やれやれ、やってくれました。8月15日の靖国参拝。こういうのをイタチの最後XXっていうんじゃなかったかな。

すっかり、文句を言う気力もなくなったけど、国債発行額を押さえるという公約も、米100俵の教育大事という公約も、え、そんなのありましたっけという感じで、平気で破ったのに、靖国だけ公約は守るものだというのもネエ。結局、ワタシタチは、奇人変人に振り回され煙に巻かれたままだったわけで、小泉劇場も派手な打ち上げ花火で終わるのね。

お国のために命を捧げてくれた人がいたからこその日本だというのはよく分かるし、そりゃあ正しい。その通りでしょう。でも小泉さんは、もう舞台を降りるから、後はどうなろうともうどうでも良いという態度だけど、一国の首相の態度としては感心しませんなァ。自分の感情で動くのではなく、もう少し四方八方に気を配って貰わなくては。

それに、私は、首相就任前も靖国詣でをしていたか、千鳥が淵を詣っていたか知りたいんですが、就任後の履歴は書いてあるけどその前のことは分からない。本当に日本のために命を捧げてくれてありがとうというのであれば、別に首相就任に関係なく詣でていたはずですけどねえ。

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さてどうしたわけか、コメントを入れようとすると受け付けてくれないので、ここに挿入します。

ニースさん、靖国についてはちょろちょろ書いているのですが、なんせだらしがないもので、どこに埋まっているのやら。専門が図書なのにあんまりですよね。しかもborn cataloguerなるお褒めの言葉をかっていただいたことがあるのですが(^^;)本性はなおりません。そのうち見つけだしてリンクをつけますのでお待ちください。

blueさん、どうせなら、最後XXとして、教育基金の大盤振る舞いでもしてくれるといいのに、あれも公約と私はとらえているのですが。

現在、東京では大規模な停電が生じているという。いくつかの路線で電車が止まり、東京のいくつかの区と千葉、横浜にまたがる非常に大規模な停電だ。

私が知る限り、東京で、ある一瞬をのぞけば、停電が起きたことはこれまでなかった

そして、このご時勢なのだから、私など慌て者の脳裏に浮かんだ最初の言葉は「テロ」だった。ここ数日東京を離れていたので落雷がどの程度のものだったのかわからないが、報道番組では、最近落雷が多かったからでしょうねとコメントしていた。

テロなどという言葉を安易に使えば混乱を招くので、使うべきではないだろうが、日本もテロに狙われていることを忘れてはならない。テロは何も交通機関や建物の爆破だけではないのだ。もし、これがテロによるものだったらどうするのか、シュミレーション、予行演習として、データを分析するべきだろう。

お盆の休みで交通機関も道路にも人影がまばらなことが救いだが、夏の一番暑い盛り、もし長期間冷房が利かなくなったら今の東京では熱中症による死者がかなりの人数に上るのは疑う余地はない。事故も多発するだろう。大型店舗や超高層ビルは自家発電が装備されているだろうから無事だろうが、ここでも、弱いものから犠牲になる。

単なる配線の老朽化や、落雷の後遺症であったとしても、もしテロであれば、どのように復旧し、市民を救うのか、これを機にきちんとした手順を確立して欲しい。

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事件というのは不可解なものが多いと相場は決まっている。異常だからニュースになるし、普通の日常はニュースにならない。当たり前だ。しかし、こう何人もの女性がやすやすと監禁されたと聞くとどうもよく分からない。

それ以前に変死体で発見された女性がいたというので、それを考えれば警察は杜撰だったかとも思うが、相手がその男でありその場所であると分からない時点では、すぐに動かなかったと警察を非難するのは酷というものではないだろうか。ニュースによるとだが、誘拐されたのではなく、大人の女性が自分から家出をして男性の家に転がり込んだのだから、警察が単なる家出と考えて静観したとしても仕方ないだろう。

そしてよく分からないのが、助けを求めるメール。助けを求めるメールを出す時間と余裕があれば、または隙を見てメールを出したのであれば、書くべきことを考えると思うのだが。友人に単に出られないと書くのではなく、伝えるべきこと、つまり「助けて、警察に連絡して」と、普通なら、書かないのだろうか。

男性のマンションに誘拐されたのではなく自分から出向いたのだから、男性の名前も住所も分かるはずだ。警察に捜査して貰うための手がかりを書くのではないだろうか。住所も、男の名前も、手がかりも書かず、顔文字が書いてあったとは、非常に不可解だ。これじゃあ、警察も本気かどうか判断に迷うだろう。

なによりも、不可解なのは、他にほとんど人も住んでいない建物の、出会い系サイトだか、お見合い系サイトだかで知り合った良く知りもしない他人の男のところに転がり込むことだ。自分からトラブルを招くことだという判断がつかないのだろうか。

もちろん、監禁し、暴力をふるった男が何といっても悪いのだが、この事件で怖いのは、犯人も被害者もコミュニケーション能力が大きく欠けていると思われる点だ。社会に生きているのに、孤立している点だ。監禁されていながら、顔文字でおちゃらけに自分を表現しなければならないほど希薄な人間関係。だからこそ知らない男のところにもつかの間の人間関係を求めたのかもしれないが。

2人きりの時は部屋のドアは開け放つ、車で2人きりになることは襲ってくださいといっているようなものだから知らない人の車には乗らない、女性が自分で自分の身を守る上で常識だったはずだ。男を世の中を甘く見てはならないと娘たちに念を押しておこうっと。

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久しぶりにベランダから富士山がみえた。8月7日、立秋である。そうか、こんなに暑くても、アブラゼミやミンミンゼミが盛大に鳴いていても秋はすぐそこまできているんだ。気のせいか、空の色も秋に近づいているような。薄い色だけどみえるかな。

画像をクリックすると拡大します。1日遅れのアップ。ずるします。失礼。夕焼け

8日、台風の影響で怪しい夕焼け

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普段言い慣れているはずなのに、blueさんの記事の中、人ごみという言葉に反応してしまった。そうか、自分以外の人はごみなんだ、だから人ごみなんだし、あんなに無礼でいられるんだと一瞬これで長年の謎が分かったつもりになった。平気でぶち当たってくる人たちをかき分けて帰宅した直後だったからかもしれない。

冷静に考えれば、人ゴミではなく、人混みなのに一瞬、なるほどなどと思ってしまうのは、ちょっと「何なのよ、これ」とか、「こういうのばかりになるとどうなるの」と怒りが無意識の層にかなり積もり積もっているということを表しているのかもしれない。

といっても、礼儀知らずが多いのは今に始まったことじゃない。日本に数年ぶりに帰国したとき一番ショックだったのが人混みの中の傍若無人ぶりだった。切符売り場でも、電車の中でも、スーパーでも、エルボーを食らって、面食らった。ことさらに、「失礼します」「降りますので通してください」を連発して、私なりの一人普及に務めているけど、挨拶する人の数はちっとも増えない。無言でぎゅーぎゅー押したりついたりするって信じられないほど無礼なことなんだけど、分かってるのだろうか。

外国旅行は珍しくもない時代になったけど、満員電車の中でぐいぐい腕でかき分けて降りていった背広のおじさんや、この間バッグで私を突きのけたきれいにお化粧したお姉さん、外国でも同じように無言の突きとばしやごり押しをやっているのかなあ。止めてくれないかな。ますます日本人として肩身が狭くなるじゃないですか。

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まあ、どんなときでも適切に適切なものを使用し、当てはめるというのは大事なことで、適材適所は周知徹底事項のはずなのだが、言うのとやるのは大違い。誰がどんな人間か、どんな能力があるのか、その判断は人がすることであり、実際のところ、そんなものはっきり言って無理だ。

 

おぎゃあと生まれたときからよーくこれ以上ないほど知っているはずの親子でさえ、実のところ分からないことだらけなのに、人様のことなど分かる道理がない。完全な適材適所など絵に描いた餅にすぎない。だのにできると錯覚するから、悲喜劇が絶えず起きる。

 

自分自身のことを考えても、適所にぴったり当てはめて貰ったことなど思い出せないし、ぴったりの場所に、ぴったりの人と出会うなどという僥倖にもついぞ出会えない。それが平凡な人間の平凡な人生である所以だろうし、実はあれがチャンスだったとか、分岐点だったなどと分かるのが数年後だったりすることが多すぎるのも出来の悪さの証明なのかもしれない。考えると憂鬱になるし、時々は地団駄を踏みたくなる。

 

何も人生を左右するような大きな出来事や出会いでなくとも、必要なものを必要なときに必要に応じて手配するという、考えてみればすごいことを毎日やっている。毎日が取捨選択の試練の連続だ。大根の代わりに白菜を選んだばかりに手持ちの材料と相性が悪くて料理をする気力をなくすとか、仕事の息抜きのつもりで電話をしたら、いつの間にか深刻な話に発展し、切るに切られず締め切りを前に冷や汗を垂らすことになるとか、いつの間にかやりたくない仕事を引き受けてしまう羽目に陥るとか。

 

先日、暑い最中に出かける用事ができた。ジーンズではなく、コットンパンツを選んだのが間違いだった。そのパンツには最近持ち歩いているハンドバッグは似合わない。となると、靴も出さなくてはいけない。そうこうするうちに約束の時間に遅れそうになり走って飛び出した。

 

用事も無事に終わり、やれやれと最寄りのトイレに飛び込んだのだが、選んだ個室が間違いだった。なんと紙切れ。しかもハンドバッグの中を探ったが、直前にバッグを替えたため入っていない。ティッシュの備えのないトイレなど、今時、想定外だ。といって、怒ったってどうしようもない。

 

しばし考え込んで、バッグの中身を点検した。出てきたものはさらさらパウダーシートとかいうもの。ウェットティッシュにパウダーのついたもので、夏の間、常に持ち歩いていて汗止めとして重宝している。パルプだ。適切に使えば最高。そして大きな声では言えないが、ティッシュの代用としては適材ではなかった。そして、声を大にする。ミントは絶対におやめなさい。

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あり得ない花シリーズ第2弾、これは何の花だ。道端に咲いていたら、少なくとも都会人で分かる人はいないだろう。春菊だ。収穫の時期を逃してしまい、見事な大株に育っていた春菊が、花をつけていた。

春菊が菊だったこと、実を言うと、知らなかった。名前も葉も確かに言われれば菊だが、食べ物としかみえていなかった。

ついでにもう一つ実を言うと、菊の類はあまり好きではない。アブラムシも寄ってくるし、いつまでも咲いているのも嫌だ。匂いもイマイチで、平凡だ。などと偉そうに言いたい放題だが、この春菊には感心した。実にけなげな奴だ。

今回の長雨と日照不足で、肥料をやり、畝を作り、ビニールのマルチングをしっかりしつらえたナスは3株とも枯れる寸前だし、大豆は数十個種まきしたのに、雑草にめげずに発芽したのはたったの1個、カボチャも、プリンスメロンも、ハーブ類も絶滅したという有様なのに、期待されていなかったのに堂々と多数の花をつけている。

春菊大量の花の種を蒔いたがアネモネとこぼれ種のひまわりが各1本、朝顔が数本という淋しい庭に、明るい黄色の花がうれしい。春に苗で植えた花も桔梗は3本が生き残ってつぼみをつけていたが、他の苗は立ち枯れていた。丈は高いがいかにも雑草らしい枯れかけの草を数本カマで切ったら、強いゴマの香りが薫ってきた。どうやら、春先に撒いたルッコラがルッコラとは思えないほど巨大に育っていたらしい。

思い通りにならないところが、子供を含め、生き物を育てるおもしろさ、醍醐味なんだろうけど、このていたらくでは一応ちゃんと子供が育ったのはすごいことかもしれない。

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