あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2007年06月

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先の記事、「コロッケお前もか」に対するウエダさんのコメント

「死人が出たわけでもない。腹壊した人がいたのかワタシは知らない。  
日本の食の安全なんてこんなものでしょ。 
安物の冷凍のコロッケ買う人は気にしないこと。…一つ一つ会社を倒産させていっても最後に自分の財布で買える食料品がなくなる人がでて来るだけ。」

これを読んで、辺見庸のもの食う人びと(共同通信社)の冒頭の衝撃的な逸話を思い出した。バングラデシュのダッカ、スラムでの話だ。駅前広場の屋台で、山盛りにして売っていた焼きめしを食べたら、なんとそれが残飯で、腐敗臭を消すために横には線香が数本たててあったという。残飯市場なるものが存在し、パーティの残りを売りさばいているのだという。

残飯市場の主な顧客はスラムの住民とリキシャ運転手達だそうだ。辺見庸は言う。「残飯を食らう者。大量輸入しては食い残す者。食の神様がいたら…後者には飢渇の何であるかをいつか思い知らせるのではないか…」

ミートホープとダッカとの違いは、ダッカでは地元民は皆なぜ安いのかを知っており、それが残飯であることを知っていたこと。それが必要とされていたこと。ミートホープは徹頭徹尾、あらゆる創意工夫を凝らして、消費者を騙して自分のみが利益を得ることに邁進したこと。

「訳あり特別バーゲン品、クズ肉入り、豚肉、鶏肉入っています。自己責任でお買い求めください」とでも書いて覚悟を促すような日々がこないことを願うが、円安が極端に進み、異常気象が続くと、食の神様が采配を下さなくても、そんな日がこないとも限らないのではないだろうか。

ドトールの株主総会に出席して帰ってくるなり、株を売り払った。儲けはなし。損もなし。配当と、優待のドリップコーヒー2回分、プラス今日のお土産分、コーヒーゼリーの詰め合わせとエクセルシオールの招待券が儲けといえば儲けだ。

ドトールは、日本レストランシステムとの統合を巡り、信託銀行から電話、ファンドから封書、ドトールから封書と、委任状戦争が激化していて、仕事柄定款や目論見書、議事録等々を翻訳することが多い私としては得難いお勉強の場だ。まあ、野次馬というのが本当のところだが。

日本レストランシステムとの統合に反対している米国系ファンド代表が3分程度時間を貰って話したのだが、通訳がまずった。というか、十分な話し合いをしていなかったようだ。彼は「ドトールは優れた企業だ。外食産業は下向きだが、ドトールは上向きだ」と話したのだが、通訳は、「ドトールは素晴らしい会社です。ドトールは伸びていますがレストラン(業)はそうではないのです」というような通訳のし方をした。細かな点は違うかもしれないが、あららと思った。

これだとさらっと聞いてしまう。本来なら、打ち合わせをして、「外食産業は業績が下降傾向です」とここでいったん切り。「しかし、ドトールの業績は伸びています」とすれば、なぜ、じり貧の外食産業と手を組む必要があるのか疑問に思う人が多くでただろう。ファンド代表の話で、そうかと思った直後の通訳だったので残念だった。挨拶など、流ちょうな言葉の豊富すぎる通訳だった。時間が短いのだから丁寧語を山積みしないで、要点をきちんと伝えることに重点を置くべきだった。

結局、理論で押そうとするファンド側に、全力を挙げて頑張ることを誓いますという精神論しかでてこない日本側が勝って80%強の賛成を得たのだが、リスクは考えたことがないという経営者ってと非常に危ういものを感じた。相手は経常利益が20%を超えて突出しているとそればかり強調したが、それって、余計怖くない?

ドトールのような業態は、厨房もプロのコックも要らないのでうまみがあり、安定感もあるはずなのに今更「食の安全」問題でこれから厳しくなると思われる外食産業と手を組む人の気が知れない。手を組むのなら、せめてパン屋に留めておけばいいのに。というのが私の個人的感想だった。

なんでもありの世の中ですなあ。牛肉コロッケが豚肉100%ねえ。宗教がらみで豚を避けて牛肉を食べたつもりで豚を食べてしまったことが判明した場合、どうなるんだろう。それでも罪になるのだろうか。騙されたのだからノーカウントになるんだろうか。ショックだろうなあ。自分が汚れてしまったように感じている人たちがいるかもしれない。

道それもちゃんとした豚肉ならともかく普通の肉屋は捨てる「くず」といわれる部位や内臓、血まで混ぜていた、鶏肉も混ぜていた、とにかくなんでも混ぜてコスト削減を計るため消費者を騙していたというのだからもう唖然とするしかない。

おまけに、会計スキャンダルにまみれたとはいえ冷凍食品大手の加ト吉に卸し、生協にも卸していたというからたまげた。生協だと!なんじゃとお。

冷凍庫に飛んでいった。コロッケが何種類も入っている。揚げ物は食べてはいけないのだが、なぜかトンカツは諦められてもコロッケはつい買いたくなる。高校時代に友人達と学校近くの肉屋で買った熱々のコロッケを人目を忍んでほおばりながら帰った思い出と直結しているからかもしれない。

実は、何事も先走って心配する私はどうも気候がおかしいと感じた12月末に、田舎暮らしに終止符を打ったこともあり、長らく中断していた生協に入り直していた。以前、お米が足りなくて日本中が大騒動になったとき、生協に加入していたおかげで全く影響は受けなかったことを思い出し、保険をかけることにしたのだ。

班活動はもう無理。個別配送には7品目ほどとる必要がある。孤食どころか誰も帰ってこなかったりすることが多い大人だけの世帯では7品目を取るのは楽じゃない。漬け物やお酒、缶詰類で数を合わせることも多いが、なんたってコロッケに目がいってしまう。冷凍庫は今や何も入らない。生協の品で満杯状態なのだ。

生活クラブ生協のコロッケは美味しいと喜んでいたがこれが偽コロッケだったら目も当てられない。どうやらセーフのようで、冷凍庫にある分にはミートホープの名はなく平田牧場の名がありほっとした。市販のコロッケより高いのに、普通食べられない部位まで混ぜたものをしかも美味しいと食べていたら、自分まで信用できなくなるところだった。まあ自分を信用できるのかと言われれば信用しようとしているから頑張ってと自分を叱咤激励するしかない状態ではあるけど…

1才4ヶ月外から小学校のプールの音が響いてくる。暑い。赤ん坊じゃあるまいに毎週ひたすら泣きわめいている子供がいてますます暑苦しい。「大丈夫、入ってみましょうね」と先生はあくまで丁寧だけど、私などは海で足の立たない深みに父から投げ込まれたなあ。どこのウチでもそんなものだったような気がする。投げ込まれてから泣けばいいのに、水に入ってもみずに泣くのは何だかなあ。毎年泣くのが男の子と決まっているのもおかしい。

暑いし、ヒステリックに泣きわめく声を聞きたくなくて、今年最初のクーラーをつけることにした。毎年、もうそろそろダメかな買い換え時かなと様子を見ている内に秋になる。暖房には使わないので昨年の夏以来だ。窓を閉めてさあと思ったら、いつものところにリモコンがない。ますます暑い。

周辺を探すが、ない。仕方がないので椅子の上によじ登り、手動で動かそうとしたら、何となにもない。あちこち触ってみたがどこも開かない。リモコン以外では動かない仕組みになっているのだ。そんなバナナ!

汗が垂れる。パニックになってきた。PCもうるさく暑いとファンを回し文句をいい続けている。机の上、戸棚の上、本棚の上、娘の部屋、寝室、ぐるぐると探したがない。机の上の書類の山を片づけ、戸棚の上の手紙の山を片づけ、でてくるのは埃と汗。リモコン無しでは動かないのなら、エアコンを買わなくちゃ。買うと工事に人がやってくる。それには部屋を片づけなくちゃ。部屋を片づけるのはエアコン無しには無理だ〜。

冷静に考えてみる。リモコンだけは置き場所をちゃんと決めてあった。それなのにない。それはありえない。あり得ないのが起きるのはあり得ないものがいたからだ。それは赤ん坊だ!家から洗濯ネットが3枚姿を消してどうやっても見つからなかったのが、つい最近、棚の一番奥で見つかった。ネットの中には缶詰が!

そうだ、赤ん坊に違いない。秋頃来ていたもの。赤ん坊が触らないように色んなものを上に上げ、隠すと、赤ん坊は色んなものをゴミ箱に隠し、抽出に隠す。ティッシュペーパーを何枚も私のタンスに詰め込んでいたし。ゴミ箱、それに違いない。あーあ、知らずに捨てちゃったんだ。きっと。暑い。汗。

買いに行くしかない。窓を開け、風を通し、長期戦に備えた。カーテンを開け、柱を見ると、そこにはリモコンが!なくさないようにとリモコン用の入れ物を柱に取り付けたのをすっかり忘れていたのだ。なくすわけないじゃない。ねえ。

山肌にまだ山桜が残っていた八戸から盛岡へ盛岡川沿い

川沿いの公園は花盛り、N子と目指した店は休日で涙だったが通りのハンギングバスケットが嬉しく、やはり城下町はしっとりと緑豊かで良い。住み心地もよさそう。古い町に緑が残り、新たに開けた町には白々とコンクリートが目立つのは心の余裕の差?それともフローとストックの差だろうか。老いていくのだから、ストックを如何に働かせるか、活用させるかを考える時期なのだろう。個人も、町も、国も。

城址に上り、古い町家を見学し、喫茶専門店に入った。気持ちの良い、落ち着く喫茶店だったが、驚いた。メニューにミルクティがいくつか列記されていたのだが、すべてフレーバーティ。私はいつもミルクティだがフレーバーティは余り好きではない。で、ダージリンを注文。

普通、というか、東京その他私が知っている限りでは添え物のミルクは無料なのだが、ダージリンのみを持ってきたので、ミルクを頼むと、なんと、150円を請求された。何でも何とか牧場のミルクで高いからと言うのだdf0aa065.JPGが、紅茶に添えるだけのまあたいした量でもないミルクが150円!これは盛岡流なのだろうか。盛岡ではみなさんダージリンやアッサムをミルクやレモンを足さずにのむのだろうか。所変われば品変わるというのは本当だネ。

盛岡在住のtantanmenさんが名前の通りよく麺類の紹介をなさっていて、ラーメン屋が多いのかと思っていたのだが、じゃじゃ麺というのが名物でおいしいというので買って帰った。味噌を混ぜ込むのだが味加減がよく分からない。まあ、一人で食べたからなんだろう。ヒトケという調味料がなければ何を食べてもあまり美味しくないことを改めて確認することとなった。

ウミネコの棲息地をテレビで紹介していた。レポーターが傘をさしてまわっている。天からの落とし物を避けるためだ。ああ、行かなくて良かった。

JR東日本の大人の休日倶楽部というのに入っている。JR東日本管内ならどこまで行っても1日6000円というキャンペーンを利用してN子と一緒に遊びに行こうということになった。5月半ばのことだ。

57159874.JPGどうせなら、遠くへ、でも時間的に余裕ということで東北新幹線終着駅の八戸を選んだ。海産物が美味しそうだし、ウミネコの棲息地があるし、海岸がきれいだってよ。といって乗り込んだのだが、新幹線の中で検討すると、種差海岸へ出るにはJRのローカル線に乗り換える必要がある。そこからは遊覧バスが接続していて海岸沿いを走るのだが、なんと中抜き、私たちが乗った新幹線はローカル線に接続していないのだ。そこで1時間強待てば、バスに乗って一周しただけでもう東京に帰る新幹線の時間になってしまう。

急遽目的地を盛岡に変更したのだが、八戸駅の駅弁がどうしても食べたい。駅前にあるという温泉に浸かりたい。で、やっぱり行ってみるかと衆議一決。2人ともコレステロールがと騒ぎつつ、美味しいものには逆らえない素直な性格なのだ。

駅近くの温泉旅館は15:30からしか利用できないというので、旅館が経営しているという温泉風呂まで15分の距離を歩く。N子の足の速いこと、普段は負けていないのだがなんせ、心臓が…。速く歩くとぱくぱくするからゆっくりと騒ぎつつ人通りの少ない、今や日本全国どこに行っても見かけるシャッターを横目に、白っぽい広い通りを歩いていく。なぜか都会は公園も緑も多いのに地方都市の中心はどこも白くて緑が少ない。周囲に多いと必要ないのだろうが、花と緑は多すぎるということはないのだが。

天然かけ流し、加温も加水もしないという。しかも390円。良い温泉だったと思う。思うというのは、なんとN子が入ったと思ったら6分で出てしまったから。えっと目が点になって時計を見直したから確かだ。私も烏の行水だが、これには負ける。数分ガンパッたが、仕方なく後を追った。

N子は日に焼けてはいけない病気を抱えている。知ってはいたが、それがお風呂と関係するとは思っても見なかった。汗で顔の皮膚を保護しているファンデーションが落ちると最初からやり直さなくてはいけないからあわてて上がったのだという。歳をとるといろいろでてくる。ごめんね、N子。

駅弁さっさと出たおかげでなんとか八戸駅の駅弁にありつくことができた。貝焼きウニの大漁浜めし。これはおいしい。ウニでしょ、イクラでしょ、アワビでしょ。コレステロールたっぷりでああ美味しい。1400円。真っ昼間のビールはなぜ美味しい。2人で美味しいネを連発しながら、盛岡へ。まだ1時前。新幹線は偉大だ。

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ピアニストの羽田健太郎さんが今月2日にお亡くなりになった。日曜日の朝は「題名のない音楽会21」を見ることが多く、今朝も何気なくテレビをつけると羽田健太郎さんの追悼番組だった。

ミッシェル・ルグランと2台のピアノで「シェルブールの雨傘」を演奏した様子が画面に映っている。[追記:Youtubeのリンクを張りました。人生の甘さも苦さも知り尽くしている、年齢を重ねた2人だからこその演奏、洒脱な2人のピアノとやりとりをお楽しみください。]

素晴らしく美しく、切なく、感傷的なメロディーを互いに目を交わしあいながら向かい合って演奏している羽田健太郎さんは実に幸せそうで、楽しそうで、演奏後に2人で手を握りあい、抱擁を交わし、人生は短い、だからこそ美しいという声が聞こえてきそうな気がした。この収録は今年の3月頃だったようだから、自分の物理的な限界を分かっての演奏だったのだろう。お見事でした。

数年前、下の娘の親友Mチャンとそのお母さんと羽田健太郎の演奏会に行こうという話になった。この二人とは20年を越す長〜いつきあいだが、演奏会には縁がなさそうにみえていたのに不思議だと思いつつチケットの手配を引き受けた。

仕事が忙しく、2日後に買いに行ったらすでに売り切れで、電話でMママに告げたら、普段のおっとりした人にも似合わない強い口調でなじられてしまった。Mチャンが行きたいといっていたのにひどい(Mチャン命の母なのだ)と泣かんばかりなのだ。

たかが演奏会じゃないの、それもたいして珍しくもない人だしと心の中で少々鼻白んだ。行こうと思えばいつだって行けるじゃないの。

テレビを聞きながらしみじみ思った。人間には寿命がある。それは自分だけではない。相手にも寿命がある。いつでも行けるというのはもう行けないということと紙一重、いつでも会えると思っても、もうすぐ会えなくなるかもしれない。行きたくなかった高校の同窓会、やっぱり行くとするか。

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Blackさんのコメントで心臓に「電線」なるものがあると初めて知った!鉄腕アトムとの差は大きくないかも。(^^)

まあ、心臓病というと青白い美少女というイメージでどうせ死ぬならイメージ的にいいかと、少女小説の読み過ぎだったのだろうが、中高生の時は思っていた。今は、余命がある程度判断できるガンがいい、ペインコントロールが可能なものにしようと勝手に決めている。

もちろん、余命3ヶ月となった時点から壮大な無駄遣いを始める計画だ。何年生きるか分からないから諦めているエーゲ海クルーズとか、イタリア周遊とか。で、旅先でのたれ死にして、周囲に、全くなんちゅうバアサンだ、迷惑をかけ散らかして死んでいってやれやれだと言われたい。

戯れ言はともかく、性格や行動パターンの分類法で私はタイプAではないかと少々疑っていた。ストレスまっしぐらな性格で心臓病になる人が多いらしい。私と言えば、なんせ、エスカレーターでは必ず右側を駆け上り、駆け下り、駅までの道で前に人がいるとつい抜かしたくなる。仕事が気になり、夜中にハタと目が覚めることもしばしばだし、ワークホリック気味というか、認めたくないけど、そのようだし。いらいらはあまりしないけど、仕事をきちんとしない人間は好きになれない。

自分でタイプAかどうか調べるサイトを見つけた。違った。なんだ。タイプAではないんだ。今度はタイプCのような気がしてきた。要するにいい加減と言うことだから、もしかしてB?主観的なテストなど気分によって色々変わる。そうそう人間一人易々と判断されてたまるかと、憎まれ口をきく私は、タイプうるさい、と娘なら言うだろうなあ。

海ここのところ一連の精密検査を受けている。かの問題多いPCではない。私だ。

あっちが痛く、こっちが変で、妙にざわざわと心臓がうるさいと騒ぎ、近くの、開業医のところで24時間の心電図をとった。。結果は、昔なじみの不整脈プラス発作性の心房細動を起こしていて、紹介状を書きましょうという。

近くに近所の人は誰も行かず、遠方の人が詰めかけている大学病院がある。助かりたければそこには行くなというのが地元民の評判で、私も一度殺されかけた。で、通常は、30分ほどかけて地元密着型中規模病院といわれるところへ通っている。

開業医の耳にはそのような評判は届いておらず、その大学病院に送り込むことになっているらしい。以前、患者を送ったら大学病院の医師はきちんと連絡してくれて良さそうだったからと太鼓判を押され、その医師宛の推薦状ならぬ紹介状を片手にその大学病院に向かった。

どこから人が集まるのやら、押すな押すなの大盛況だった。待つ間に患者のおしゃべりが聞こえてくる。私がいつも通っている中規模病院で手術をしてその後こちらに通っていると一人がいうと、待合室仲間らしいもう一人もその周辺から通ってきているという。

その中規模病院は、なんせ、建物が古くて、従業員も医師も看護婦もみんな中年で、要するに良い医療が受けられるか、先端医療ではないのではないかと心配だということらしい。裏返せば、ベテラン揃い、移動が少なく居心地がよい、安心だと、私なら思うのだが人それぞれだ。中規模病院が実は偏差値では最高峰のK大傘下だと知っていても、建物も器材もついでに受付から看護婦まですべて若いこの大学病院を選ぶだろうか。

結局、5時間待って診察を受けたが、紹介状の宛先の医師は初回はみないと予め問い合わせたとき聞いていたのだが、診察に当たった医師は、僕宛ではないけど、僕が見ます。ということになった。初老の医師だったのでまあ由としよう。

ホルダー式の機器は、中規模病院のは、かなり昔だったが肩から下げるかなり大型のものだったのに対し、開業医のは最新式の胸に貼り付けるだけ、大学病院はその中間のウエストポーチ型だった。どういう訳か、テープは開業医と大学病院でかぶれ、大学病院では装着時に前回テープでかぶれたから何か予防策はないかと聞くと、じゃあ小さいテープでやりますが、まあずれてとれないことがあるから。とあくまで不親切な仏頂面の看護婦だった。

ところで、海外で救急病院に駆け込んだときのこと。長々と待たされていたら、横に座った白人男性が「僕はカソリックなのだけど、そのせいで長く待たされるのだろうか。あなたはどこから?」と聞いてきた。

満員の飛行機で、バランスを取るため、座席を替わるよう指示されて私の隣に座った黒人男性は「白人でないから座席を替わらされたんだ」と不満たらたら差別だと言ってきた。思い込みだって。

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死ぬのは卑怯だ」に荘八さんからコメントをいただきました。

なるほど、政治家が特別なんですね。
死はわれわれ人間にとって「重大な決断」であるはずだが、政治家になりますと、それは「逃げる」事になるのですね。納得しました。

ところで、故人が生きていても今まで通りの答弁しか出来ないでしょうから、そうしますと、彼は生きるも卑怯、死ぬも卑怯、という事なんでしょうか?

松岡大臣が追い込まれていったのは分かります。誰だって半分ノイローゼのような状態になるでしょうね。自分が掘った穴に落ちたのであれ、落ちたのは気の毒だと思います。

しかし、今まで通りの答弁しか、できないとなぜ思うのでしょう。原点に戻ればいいのです。

松岡大臣は日本の国の大臣であり、選挙民が選んだ、国会議員です。日本の国を代表する一人です。大臣の椅子を買ったという噂もあるようですが、それが事実だとしても、彼を国会に送ったのは彼を支持した選挙民です。彼らの代表です。

彼が義務を負うのは、何よりも国民にたいしてです。安部さんや諸々の利権相手よりも何よりも国民に直接義務を負っています。それに気づけばいいのです。死んだつもりで説明すればいいのです。自分が積み上げたもの、蓄財したもの、そういうものへの未練を断ち切って自分が何をすべきかを虚心に考えればいいのです。

後は辞任して、普通の人に戻り、普通の人なら退職の年齢ですからね、畑仕事をするか、地域の人たちのためにボランティアの仕事をするか、一番良いのは、自分がやってきたことで国民の利益に反することがあれば、それはどうすれば今後防げるか、最善の策は何であるかを、業界や仲間のことを考えず、唯一国益のことだけ考えて公表すればいいのです。何せ、日本の農業は絶滅しかかっていますからね。

普通の人に戻る前に、もしかしたら尋問や、拘置所や、脅しや、蔑みや諸々の嫌な思いをしなくてはならないかもしれません。公人であるにも拘わらず、日本の農業の実態を熟知しながら、国民を裏切り、国を裏切ってまでして築いたものだとすれば財産も、評判も、なおさら失いたくはないでしょうね。

当然、そういったことが彼の頭の中でぐるぐる回ったでしょう。しかし、それは自分が掘った穴なのだから、誰でもない、自分が埋めるしか仕方がないではないですか。辛い思いをしたくない、尋問も受けたくない、何より義理が立たないと思ったでしょう。でもこの義理は、選挙民への義理を踏みつけて負っている義理は、そんなもの、国民への義理に比べればたいしたものではありません。彼の自殺は私には自己保身に見えます。身内、利権者を自己の一部とするという意味合いを含めてですが。

国民への義務を果たさず、自分の掘った穴を埋めもせず、逃げ出したのは卑怯です。

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