あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2009年08月

33ee9f51.jpg民主党がマスコミの予測通り300議席を超える大躍進。

オバマさんのchangeに倣って、日本もchangeということなのかもしれないが、決定的な違いがある。

オバマさんは、厳しい道が待ち受けている、任期の4年間では片がつかないかもしれないと国民に警告した上でのchangeだったが、同じ政権交代でも、民主党はみんなにあれを上げます、これを上げます、無料にしますとバラ色の夢をばらまいてのchangeだってこと。もはや出来ませんでは済まない。それにしても、こんなに勝たせてどうするのかねえ、今後の混迷が深くなるなあ。

各国にばらまいたという鳩山さんの論文にしても、首相になる前にすでに米国で問題となっているという。何も喧嘩を売るようなマネをしなくても良いのに、相当な外交音痴のようでいっそう怖い。政権が変わっても米国と親密にやっていくことが必要なのは普通分かるでしょうに。米国に進出している企業の足を結果的に引っ張るようなことは止めて欲しい。

しかし、この論文、日経にははっきりと米国が問題視していると書かれていたが、テレビニュースでは注目を集めているとしか報道されていない。誰に遠慮だか、こういう報道がバイアスをかけた報道というのだが。

ところで、昨夜はテレビ東京の選挙特番「戦略会議」で1時間ほど開票結果を見ていたのだが、非常に面白かった。このチャンネルは情緒ではなく事実を元にするから、他局とはひと味違う。また、出演者が、伊藤元重 / 猪瀬直樹 / 姜尚中 / 北川正恭 / 榊原英資 / 塩川正十郎 / 竹中平蔵 / 田中均 /ロバート・A・フェルドマンというのだから面白くないはずがないが、当選者へのインタビューもずいぶん突っ込んでいて、しどろもどろの何も分かってないような政治家の顔がよく分かり、どんどんこういうインタビューが許されるようになれば、ジャーナリズムにも希望がもてるというものだ。

竹中さんだったかが、民主の圧勝ということになれば、円高がいっそう進み、日本の産業は辛いことになると話していたが、早々と、一夜明けた今日は、もう大幅な円高となっている。当面、株も期待薄だなあ。あーあ。

この間、日経に言い得て妙な言葉が載っていた。自民に不満、民主に不安。

全くその通り。何やってんだろうと自民にはかねがね不満だが、マニフェストを読むほどに民主に不安が募る。

日本全国民主党員になったかのような昨今だが、ホントにこのマニフェストを実行するのだろうか。一見、若い人向けに見えて、その実、ワタシの子供や孫の世代が長々と苦労することになるだろうなあ。

といっても、まあ、ご存じの通り、元自民党と元社会党が混在する民主党、果たしてどのくらいもつのだろう。単独過半数を取りそうな勢いなので、そうなれば4年間はそのまま行く可能性があるが、左派と右派が激しい権力闘争を繰り広げ、空中分解する可能性も少なくない。党だけならどこであれ、分解して貰ってもちっとも困らないが、日本が分解すると困る。

敗戦で戦前の権力者が追放され、すべて入れ替わったことが戦後の日本躍進の原動力となったと思っているから、ガラガラポンは必要なのだが、お金にまつわる政策ががらがら変わるのは絶対的に困る。どうも金にまつわる話は建前論が立派な論議だと考えられている日本では臭いものに蓋式にまともな論議の対象とされず、節約すれば良いといった乱暴な話になるようだが、金は人間で言えば血液なのだから、なんていったって基本だ。なければ生きていけない。きちんとやって欲しい。

で、首相となりそうなぽっぽ代表。未だ故人献金、偽装献金のカタがついていませんよ。就任早々、再び火がついて、早期辞任となるのではないのかなあ。野党の党首だったからまだましだったが、一国の首相のスキャンダルになると、みっともない。ああ嫌だ。

で、ネットで評判の悪い自民党の"ネガティブ"キャンペーン、ホリエモンのブログでリンクが張ってあったのでみてきました。

ネガティブ・キャンペーン、それも政党のと言うから、どんなに泥臭いものかと思っていたら、これが面白い。はじけている。笑ってしまった。とくに「ぶれる男たち」。「ラーメン」編も面白い。漫画王国日本だね。一度どうぞ。自民もいよいよの解体の危機に瀕して開き直ったのかもしれないね。

政党チャンネルの自民党がこっち。民主党がこっち。webでみれば、自民党が革新モード。おかしなもので、敗れたら、そのうち革新党と呼ばれたりして。(^o^)

d7ceeb5e.JPG息子が坊主頭にしたら赤ん坊が号泣したという。サングラスをかけたら、これまた怖がって泣いたという。

息子は、重たい10キロもある子を乳母車にも乗せないで真夏にも抱いて歩くくらい可愛がっていて、赤ん坊も帰宅するとキャーキャーと喜びの声を上げるというのに、髪の形が変わったくらいで数日間も怖がるというのは、赤ん坊は相手の顔を覚えているのではなく、輪郭で覚えているのだろうか。

そういえば少々前、テレビで赤ちゃんの認識力テストのようなものを見たことを思い出した。生まれつき危ないものは避けるように本能が働き、怪しげな人とは目が合わないように避けるというのだ。強面の男性が登場すると、確かに赤ん坊は目をそらして、視線が合わないようにしていた。本能というのであれば、大昔の男性がきれいにひげを剃り、優しげな格好をしていたはずもないので、とりあえず、男とはっきり分かる人や、見慣れていない人は皆、危ない存在と見なして、刺激しないよう、大人しく、視線を下げるようにすり込まれているのかもしれない。

実は、2週間ほど前から、赤ん坊が私を避けている。視線を捉えようとしても、巧みにかいくぐり、絶対に目を合わせようとしない。もちろん、髭などないし、坊主でもない。猫なで声を出してもだめ、赤ん坊を抱いた息子の周りを衛星のようにぐるぐるまわって赤ん坊の視線を確かめたが、どうしても目を合わせず、そのうち泣き出した。

それまで大丈夫だったのにと考えて、気がついた。赤ん坊の前で息子とやりあったことが原因ではないだろうか。1年に満たない子をつれて、片道最短でも14時間もかかるという途上国の孤島に遊びに行くというので、安全は、衛生状態は、豚フルは、そもそも赤ん坊の都合はと問いただした私に息子が切れたのだ。赤ん坊はそのやりとりをじっと観察していたのだ、きっと。

息子たちはその旅行計画を撤回して近場に変更したが、私が息子の敵だという感覚が赤ん坊に残ってしまったのだろう。やれやれ、赤ん坊が私への不信感を撤回するにはどれくらいかかるのだろう。恐るべし、赤ん坊。

35f9a9c3.JPG相手があることだといくら予定を組んでも、計画を立てても思い通りにはならないことが多い。当たり前だ。あっちにはあっちの都合があるのだから。子供の都合、仕事の都合、色々あるが今回ほど当惑したことはない。相手が妖怪もどきの爺さんなのだから、桁違いにぶんぶん振り回されてもこちらが引くしかないらしい。

転院3日目にして、リハビリ拒否が始まった。レントゲンに無理に連れて行こうとした看護婦さんを叩いたという報告が妹からあった。前の病院で各種レントゲンを撮ったのに、なぜまた撮るのかと騒いだらしい。今まで口うるさくとも手を上げることはなかったので、多分、振り払っただけだと思うのだが、いよいよボケが進んだのかとぎょっとする。

病院に行くと、療法士の人がリハビリに連れて行こうと説得している最中だった。口をへの字にして断固応じない。話しかけようとする彼女に、ええい、うるさい、あっちへ行けと信じられない暴言を吐く。今日、退院するぞと繰り返す。先生が回診の時、退院して良いと言ったと言い張る。退院なら私にも話があるから、まだなのよ、もう少し待ってと言うと、退院ではないなら何しに来た、帰れと手を振り回し、何もせずにじっと寝ていることがどんなに辛いかお前には分からないのかと、ぷいと横を向いた。

病院に行かない日は、本人から家に電話がかかってくる。電話番号を覚えていること、かけられること自体は素晴らしいことだが、かけられるこちらの身になればたまったものではない。「今日、退院なのに、なんで来ない。来ると言ったくせに、嘘をつくな」と電話で叱られる。思い違いだと言っても聞く耳持たず。なだめ、すかし、相手になり、それが2回、3回と重なると、へとへとになり、こちらが寝込みたくなる。

海千山千の父は私相手に闘争を仕掛けている。呆けているのか呆けていないのか判然としない。時により、呆けと正気を自分に都合良く使い分けているような気がする。

90才でしょう、子供みたいなことを言わないでといえば、90にもなるからいつ死ぬかもしれない。お前はそれでも良いのかと返してくる。老いては子に従えというじゃないのといえば、そんな言葉は知らんと威張る。

まだベッドから下りるのもよろめき、一人では放置できない状態なので、毎週末の外泊を餌にリハビリを頑張って貰おうと外泊許可を見せて、リハビリを頑張れば、毎週末家で過ごせるからねと言いくるめようとしたら、敵は、一旦家に戻れば二度と出ないからなと返してきた。新たに探した介護認定患者を担当してくれるケアマネに対しては、小娘がうるさく言うなととてつもなく失礼なことを口走る。

ここで、打つ手がなくなり、ギブアップ。その場で数日後の退院を決めてきた。ソーシャルワーカーもケアマネも、理学療法士も、今家に戻すのは大変だといい、私もそう思うのだが、もう仕方ない。転ぼうが、骨を折ろうがもう知らない。これから先は本人に頑張って貰うしかない。ここを退院してしまえば、もうリハビリ病院には戻れないというのに。

すぐさま、ケアマネに電話をし対策を練った。業者に連絡して貰い、リハビリ病院と同系列で、この後予定していた自宅近くの老健に、入院中であれば書類を作成し、優先的に入れて貰えそうなので、といっても、1ヶ月ほど待たねばならないが、ちょうど良いので、そこの入居とデイケアに申し込むための手続きを進めて貰った。

手すり、ポータブルトイレ、車椅子、老健のデイサービスはすぐには通えないので、それまでのデイケアとして麻雀と喫茶付きのところ!を探して貰い、週3回の夕食の配食と、週2回の介護を手配して貰った。(デイケアとデイサービスと2種類あるって知ってました?デイケアに通うには審査等があり1ヶ月近くかかるらしい。デイサービスは1、2週間後には開始できるらしいが、いずれにせよ本人の見学と、デイケアの場合は行きたいという意思表示が必要だと言うから、ここにも大きな関門が!)

大量の電話と、交渉、書類を扱いつつ、朝と夜に仕事をこなし、毎日のように母の家に行き、3日に1度病院に通うのだから、なんか、自分の事務処理能力に惚れ惚れしてしまったね。ハハハ 

あまりに我が儘な父とこちらも呆け症状がでてきて足を引っ張る母にこのままでは鬱になると思っていたワタシだが、そうは問屋が卸さないゾ。こっちだって、海千山千さ。

あと2週間ほどで娘が孫を連れてやってくる。妹が同時期に娘の結婚式のために帰国する。混乱の度は増すけど、楽しみも増すはず。その前に締め切りがあるが、どうなることやら。いや、このワタシが出来ないはずはないと、暗示をかけておこうっと。それにしても初夢が悪かった。もしかして予知能力があるのかも。(^o^)

3d295d6c.JPG毎日午前3時頃、目が覚める。祈ることの出来る人を羨ましいと思う。信仰をもたないでいられるなんて、強いのねといったドナの言葉がよみがえる。

リハビリ病院に面談に行った。1週間ほど前の月曜日のことだ。病院の歴史やリハビリの構成等の説明を聞き、リハビリ室や病室を見学し、話し合いの末、最短、水曜日の朝に転院することが決まった。見舞うたび、今日、退院するぞという父をなだめるのに苦労していたので、転院できるか心配だった。毎日、今日退院すると言い続け、看護婦さんにも迷惑をかけ、リハビリを4回連続して拒否したこともあったから、リハビリをする意欲のある人という条件をどうクリアするか頭の痛い問題だった。

温泉旅行で釣ろうとしたがその効果はすぐに消えた。リハビリは2時頃から開始されるので、その頃病院にいるようにし、なんとかリハビリを行わせるようにした。母と妹、みんなの努力の成果だった。転院の朝、医師が、よくスムーズに転院を受け入れて貰えましたねと言った言葉がすべてを物語っている。

退院が2、3日延びたと電話しろと、転院の日、父は繰り返し私に命令した。次にはお気に入りの喫茶店に寄って食事をしていこうと言い張ったが、リハビリ病院の方で時間が指定されていて、しかも退院手続きが時間がかかり、ぎりぎりだったので我慢して貰った。今考えれば、この我慢がいけなかったのかとも思う。

喫茶店とか、家で休んでからとか、多少揉めたが、結構すんなりと転院し、そこでの昼食をおいしいとご機嫌で食べたのでほっとした。若い人たちが多く、父と陶芸の話をする人もいて、やれやれと思えたのだが。リハビリ病院は180日間いることができる。せめて、あと2ヶ月ほどリハビリに励んでくれれば麻痺も軽いことだし、自宅に戻すことが出来るのではと期待した。これで当分安心できると肩の荷が下りた気分だったのだが、父の機嫌はわずか2日しか持たなかった。

90年もの長い間生きてきたものは、人でも動物でも樹木でも、妖怪に近づいているのかもしれない。我が儘を通してきた父がそうそう、人のいいなりになるはずはなかった。

きちんと言われたとおりにしないことを、先生は痴呆のせいだと言ったが、そうではない。元々、勝手気ままにやってきた人なのだ。昔聞いた話だが、「気をつけ」、「歯を食いしばれ」とビンタを受け、一歩下がり、再び、「気をつけ」、「歯を食いしばれ」で結局小屋を一周したが意見を曲げず、上官の方が根負けしたと威張って話していたような父なのだ。

30点満点で10点という成績で、血管障害による中程度の痴呆との診断は下っていたが、うち、5点は年月日を答えるという問で占め、これが0点。素直に答えるような人ではない。簡単な計算も口をへの字にして答えなかったという。非協力的であることも痴呆の発現と医師はみていたが、これは性格というのが私たちの考えだった。

そして、この性格が転院により、拍車がかかったのだった。さあ、どうする。頑張れ私って言ったってねえ。

01073597.jpg原爆が広島と長崎に投下されてから64年目の夏だという。

小学生の頃、原爆を題材にした映画が多数あったように思う。学校の講堂でも、夏の校庭で開かれる映画大会でも、雨の降る暗い画面を食い入るように見つめ、被爆した少女が亡くなる話に涙した小中学生は多いだろう。主題歌だろうか、「ふるさとの町焼かれ」で始まる歌を今でも歌える。千羽鶴を折っているシーンなど心に焼き付いてしまったシーンは折に触れよみがえる。

これらの映画はどこに行ったのだろうか。小中学校で映画を見るという習慣はいつから消えたのだろうか。唯一の被爆国として後世に伝えることが私たちの義務だとしたら、学校でこれらの映画を見せても良いような気がする。子供といえど、考えるのだし、考えさせることこそ教育の本質ではないかと思う。

20年ほど前、上の娘が小学6年生の時、広島の平和の行進に参加し、語り部の話を聞くという生協の企画があった。1泊2日の旅だったと思う。子供だけでも確か参加できたはずだが、下の娘と3人分申し込み、広島に出発する日の朝のこと。地下鉄の中で小学4年生だった下の娘の口数が少なくなっていき、気持ちが悪いといいだし、ついに途中の駅で降りることになった。降りたとたんに駅のホームで吐いてしまい、動けなくなってしまった。

集合時間は迫ってくる。仕方なく、娘を早朝のホームに残し、上の娘を連れて東京駅へ急いだ。後から、上の娘もホームに残し、私だけ行けないと連絡しに行けば良かったのかもしれないと思いついたが、そのときはキャンセルすることはまったく考えられず、せめて娘だけでもこのチャンスに参加させねばと、おばさんたちと子供たちの団体に預けた。

可哀想に、娘は何が何だか分からないうちに一人参加させられていたのだと思う。文句いう暇も抗議もする暇もなく唖然とする娘を置いて、私はとって返した。下の娘はそのまま誰もいないホームの椅子の上で横になっていた。ほっとすると同時に今度は上の娘のことが気になりだしたが仕方ない。

翌日、娘がちらりとでも写らないかと必死でテレビの原爆記念式典を見つめた。こんなに必死で原爆記念式典を見つめていたのは視聴者がいくら多いといっても、多分、私一人だっただろう。

娘は真っ黒に日焼けして元気に帰ってきた。団扇と手ぬぐいを貰っていて、すごーく暑かったというのが感想だった。行進に参加した娘をちょっぴり羨ましく思ったのだった。そしてこれを契機に、娘が自立と自己主張の道に突き進んでいったような気がする…

f7010506.JPG母や妹と一緒にケアマネに会いに行った。複雑怪奇な制度が少しずつ姿を現してくる。

現在、両親は要支援2で、先月、要支援の2のままで「再認定」(つまり更新のことだろう)申請を済ましていたが父の状態が激変したので再認定の再認定が必要で、数日前に再認定を取り下げ、あちこち電話をかけまくった効果で月曜日に病院でまた別の業者が介護についての調査をしてくれることになった。ここまででも十分ややこしいのだが、話しているうちにさらに不思議なことが分かった。

現在担当しているケアマネは区役所内に事務所があり、区の関係者らしいのだが(名刺も貰えず良く分からない)、この人が扱えるのは要支援の区分のみでそれよりも重い介護については民間業者が担当するという。つまり、要支援である母は今まで通り現在のケアマネで、要介護に相当するはずの父は別のケアマネが担当する。夫婦2人に2人のケアマネがつき、それぞれ別々に交渉し、書類を書き、連絡するという作業が発生する。なんという時間の無駄、非効率、馬鹿げた制度だろう。

父に関しては麻痺について要介護度が低く判定されても、痴呆の方で介護度を上げることが出来るかもしれないとケアマネ。一人の人間だよ、肉体と頭と別の人間ではない。肉体により頭が振り回され、頭により肉体が影響を受ける。いちいち言うまでもない。それを別々の基準で計る。役人のやりそうなことだ。

まあ、この馬鹿げた制度のおかげで父の介護度はかなり高く判定して貰える可能性もある。というのは、詳しい話は月曜日の主治医との面談を待たねばならないが、父がこんなテストを受けられるかと痴呆のテストを拒否したため、結果がかなり悪いというからだ。単に頑固な性格で、子供のようなテストが受けられるかと正常に判断して拒否した場合も、痴呆で意味が分からず拒否した場合も、同じく悪い点数がでる。全く、何が幸いするか分からない。

痴呆の施設ではなく、リハビリ病院を経由して我が家のすぐ裏に数年前に建った老健を目指すことにし、その間にトラブルを起こして自宅に戻される場合に備えて、リフォームについても問い合わせてみた。

ここでも、馬鹿げた話がでてきた。リフォームは目的の本人がいなければできないという。つまり、入院中や老健に入っていればできないことを意味し、本人が戻る前に整えることは不可能だという。それもあちこち申請やら見積もり、決済等を経るので、本人が戻された、さあ大変、直ちに手すり等をつけようと思っても、かなりの日数がかかり、その間、どうしろっちゅうねん。自費で取り付け、本人が戻ってきた後、必要であり、使用していると判定されたら補助金として戻せばいいのではないかと思うのだが、それは出来ないという。一体、いくつ、利用者無視の馬鹿げた制度が積み重なっているのだろう。

気を取り直し、リハビリ病院を早めに追い出されたときのため、3ヶ月から6ヶ月待ちだという近所の老健に見学兼申込書を貰いに行ってきた。新しいのできれいだが、すべて個室で費用は月額21万円から25万円。両親の年金すべてを充てねばならなくなるので、そうなれば母を引き取るしか道はなくなる。非課税の場合、「介護保険の負担限度額認定書」を獲得すると、数万円安くなる可能性があるという。だがここも最長6ヶ月しか入居できない。環境が変わると高齢者の状態が悪くなるというのが定説だが、行政は6ヶ月単位のたらい回しを推奨しているのだ。

その上、症状が安定していて、問題を起こさない人しか受け入れないと言うことで、本人との面接、医師の説明などなどが必要だという。まるで景気後退期の入社試験並みだ。父のような頑固でへそ曲がりの人間はどうやってこの試験をくぐり抜ければいいのだろう。

拒否されたときのため、併せて都営住宅の身障者用の住居を申し込むことにした。さぞかし面倒な書類作成仕事が待っているんだろうなあ。ハードルはあといくつ?

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