あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2009年10月

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格差の議論について回るのが、塾や家庭教師の費用がないから格差が広がり固定化するという話。でも本当に高校進学や大学進学に塾は必要なのだろうか。

子供たちはいわゆる帰国子女で、帰国したとき、息子は6年生、上の娘は3年生、下の娘は1年生だった。息子の卒業と私の卒業を待って帰国したので、帰国時は6月末と中途半端で、子供たちは現地の日本語学校に通ってはいたが、土曜の午前中だけであり、日本語も十分に話せないような状態だった。

私は教育ママでは全くないが、一つだけ続けてきたことがあった。それは本を読み聞かせること。息子が2才くらいからか、ほぼ1日も欠かさず寝る前に本を読んできた。もちろん、自分も楽しかったたからなのだが。毎週図書館に通って、子供たちと本を選んだが、日本語の本はなく、英語の本だった。何語であれ、言葉が基本。学力はそのまま通用すると楽観的に考えていた。

そういう状態だったから、下の娘の最初の授業を見学してびっくりした。娘は指をさしながら、ひらがながようやく読める程度だったのに、みんなはすらすらと教科書を読んでいるではないか。

もちろん、その年は全員の通知表が2の行列だった。普通の親なら大変だと思っただろうが、次々と子供たちが喘息やら胃潰瘍やらを起こし、それどころではなく、一緒に教科書を読むくらいで、特別心配はしなかった。と言うより、心配する余裕がなかったという方が正しいかもしれない。

もちろん、塾など考えもしなかった。言葉を覚えれば何とかなると思っていたからだ。数年経つ内に、徐々に2が姿を消し、少しずつ成績が上向いていった。その頃小学校の担任が「クラスの子供たちがお宅のお子さんのように目を輝かせて授業を聞いてくれたらどんなにいいだろうといつも思っているんですよ」と言ってくれたことが大きな支えとなった。塾で前倒しに習っておらず、初めて聞くことばかりで、勉強が楽しかったのだ。本来、勉強は楽しいはずだ。知らないことを知るのは喜びだ。当たり前だ。目先の成績よりも勉強の姿勢をつける方が大事だろう。

高校受験の時には塾通いが必要ではないかと気を揉んだが、数ヶ月も経たないうちに、2人とも一度行ってみたかっただけだと、さっさと止めてしまい、マイペースで受験。紆余曲折があり、大学受験では浪人までしたし、浪人中にはアルバイトをしながら塾に通ったが、それも週2回とか3回程度で、特待生で授業料が半額になったから行ったようなものだった。必要なのは塾ではなく、気力とやる気だ。

結果的に、他の人たちよりも長い時間を必要としたかもしれないが、十二分に中学時代も高校時代も満喫し、様々な役員や部活動に従事し、多数の素晴らしい友人に恵まれた。

これは塾に追い回されなかったから出来たことではないだろうか。成績は後になるほど上昇し、研究科への入学の頃にはトップクラスとなっていた。受験テクニックには無縁で目先の受験には間に合わなかったかもしれないが、基礎体力がついたのだと思っている。主体性のある人間に仕上がったと思っている。1年、2年の浪人生活は長い人生に比べればなんていうことはない。

寿命が劇的に長くなっているのに、昔ながらのスパンでは息が切れる。精神的な成熟度も昔に比べずいぶんのんびり、ゆっくりしているようだ。年齢×八掛けと考えればいいと誰かが言っていたが、そんなものだろう。だとしたら、もう少し長いスパンで考えた方が良いだろう。

といっても、その前提となるのは、人の流動化だ。やる気のある者にはチャンスを与える仕組みだ。真綿で子供をくるむことではない。そこのところをしっかり見据えた政治を期待したいのだが…日本がダメなら世界がある。世界は広い。ホントだよ。

永妻さんがねじ込んで一旦廃止されていた母子加算を復活させるという。まあ今期限りらしいが。日弁連も母子加算の削減に噛みついていたが満足だろう。

まったく、みんな勘違いしている。金をばらまきゃ済むと思っている。どうだ、人民に優しい政治だぞと、金をばらまき、いいことをしたと自己満足に浸っているようだが、それっておかしくないか。貧乏だって乞食じゃない。母子家庭だからって施しが欲しい訳じゃない。

すべての母親たちや働くチャンスを上手くつかめなかった者たちに、働きたい者が働けるように、何の働く技量も手立ても持ない母親には教育を、子供たちを預かる託児所を、幼児だけではなくもっと年長の子も安心して預けられるような施設を。病気の時にも安心して働けるような施設や保健婦の派遣を…

女がどれくらい差別されているか、母子家庭がどれほど差別されているか、現実を見てみろ。この男中心、健常者中心の社会がどれほどゆがんでいるか、どれほどの有能な才能を失っているのかよーく見て欲しい。まずそれを是正して欲しい。女を十分に活用しただけで、セクハラや思い込みを止めただけで、少子化対策よりももっと成果があがるはずだ。

もちろん、お金を貰えば嬉しいよ。多くの母親は助ったと思うだろう。しかし、生涯福祉の世話になるのが嬉しいか?あなたならそれで満足か?肩身の狭い思いをずっとしていたいか?子供に劣等感を植え付けないか?

ちびちび広くまいてしまうより、まとめて、現在の母子家庭だけではなく、未来の母子家庭や父子家庭の役に立つことに使うことのほうが大事だと思う。

母子加算は生活保護に子供の分の手当を加算するものだそうだが、生活保護世帯や母子家庭は、各種の特典を受け取っている。私は娘が高校を卒業するまで、ほぼ毎年母子手当を受け取っていたが、小、中、高と公立学校の授業料は無料で、小、中では給食費や遠足、修学旅行費が別途支払われていた。医療費も無料だったし、都営地下鉄の無料パスもあった。水道料も確か無料だった。娘たちは国立大学の大学院に進学したが、その授業料と大学院の入学金も無料だった(追記:大学、大学院の場合は、成績という条件も加味されるが、そのため必死になって勉強することは当人にとっていいことだ!2人とも理系でアルバイトもままならなかったが、家賃他の生活費には育英会と区の母子貸付金を利用。両方とも無利子だったが、そのうちインフレになるというもくろみは外れたが、現在、母子貸付金を私が30年均等払いで返済中であり、娘たちは育英会を返済中。)

必要なのは、そのような手当があることを調べること、公立学校では、体操服、帽子等を固定せず、自由にすること。母子家庭等が自尊心を持って、母親としてだけではなく、一人の人間として社会に参加して暮らせるようにすること。そうじゃないかい?

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流れ星が沢山見えるかもしれない。夕方、買い物からの帰り、いつもの公園の中で立ち止まってしばらく空を見つめていた。

オリオン座流星群が観察できるのは23日までらしい。来年は月明かりで観察が難しいとかで、次回観察可能となるのは70年後となるという。

公園の中といっても都会の空は明るく、おまけに薄雲がかかっていて、一つも見つけられなかった。1時間に25個ほども出現するというのに。星に願いをかけることはできなかった。

ところで、消え去るまでに願い事を言うことなど可能なのだろうか。愛とか、金とか、家とか、どうも散文的な1文字を叫ぶ余裕しかないだろう。

昨日は父の91才の誕生日だった。公園の暗がりで空を眺めながら、10年近く前の大流星群のことを思い出していた。息子は海外で、娘たちは地方の大学、私は一人で暮らし、両親は近くに越してきたばかりだった。

もう流星群の名前は忘れてしまったが、大きな流星群がきているというので、早朝暗いうちに敷物をもって集合し、敷物を敷いて寝転んで3人で星を眺めた。周囲には大勢の人たちが同じように仰向けに寝ながら、赤や青の光りがぱっと光って消えるたび、一斉に歓声をあげ吐息を漏らした。星が流れるたび、あっと叫ぶだけで、とうとう願い事は一つもいえなかった。

でもあのときの心の中の願いはすべて叶ったような気はする。家族みんな無事になんとか平安に平凡に生きている。それ以上もう願うことは残っていないような気もするのだ。

写真は産経ニュースより

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加藤和彦と言えばフォークル時代しか知らない。歌は好きだったし、よく歌っていたが、彼についてはひょろりとした背の高い京都の大学生という以上の印象はなかった。久しぶりに見た加藤和彦は、いつの間にか年月に磨かれ、穏やかそうな、笑顔のきれいないい男になっていた。

彼が安井かずみと結婚していたのも知らなかった。安井かずみといえばおしゃれでクールな、いい女だった。彼女が彼を磨いたのだろう。加賀まりこが石坂浩二を磨いたように。

安井かずみと18年間の結婚生活の内、夜一緒に食事をしなかったのは、わずか10日ほどだという証言を聞き、彼の自殺が江藤淳の自殺とかぶった。もうやりたいことがなくなったという遺書が残されていたようだが、これも、江藤淳の遺書と言われる痛切な「妻と私」に重なる。二人とも、後追い自殺したように見える。

加藤和彦は安井かずみが亡くなった後、再婚したが5年足らずで離婚している。なんとか自分を奮い立たせて生きようとしたが、結局、もうどうでも良くなったということだろう。

痛ましいとは思わない。羨ましいと思う。自分にぴったりの相手を見つけることができ、やるだけのことをやってもう思い残すことがないほど生ききったというのは、誰にでも出来ることではない。自分の手で自分の人生をジ・エンドまで演出したとも思える。生まれることは選択できなかったが、終末くらい自分で選択したいと思うのは密かに多くの人が胸に抱える思いかもしれない。これは危険思想だろうか。

年を重ねるにつれ、どう生きるかよりもどう自分の始末をつけるかの方が大きな問題として目の前に立ちふさがってくる。相手がいれば、あるいは自分がいなければ困る人間が目の前にいれば、なんとか義務感から前に進むしかないが、解決してしまえば、自分の存在価値をどうやって見つけていくかが大きな問題となってくる。生きること自体が面倒になってくる瞬間がある。

長生きすることは即幸福を意味するのではない。いくつになっても認められたい、役に立ちたいという欲求は強く残る。周囲が保護しようとすることが、反面、現在、未来の高齢者の生き甲斐を奪うことにもなる。平均寿命ほども生きることは、生きる意味を見つける作業、勉強に、還暦から数えて、生まれたての赤ん坊が成人するよりももっと長い時間従事しなくてはならないことも同時に意味する。

友人と、例えば、80才とかある程度の年齢になれば、自殺の自由を認めて欲しいという話になった。もう自分は十分生きた。怖い思いも、痛い思いもしたくない。そう思った人は1週間とか豪華ホテル仕様のホスピスでゆっくりくつろぎ、家族と話し、それでもなお、もう十分、やっぱりこの世からおさらばしたいとなったら、睡眠薬入りのワインでも飲みながら、注射で眠らせてくれる制度が新設されるなら、それが一番よねと。どう生きるかだけではなく、どう死ぬかという観点から、宗教に頼ることの出来ない私たちのために死生学的観点から、もう少しそこいらを整備して欲しいなあ。

どっちみち、永遠に生きる人間などいないし、なんたって終わりよければすべてよしなんだから。

飛行機雲母子家庭で困ること。それは力仕事。近くに息子がいるが、これが全く役に立たない。先日、役に立たない日々という佐野洋子のエッセイ本を読んで大笑いしたり、切なくなったりしたのだが、若い息子が役に立たないのは困る。

6年ほど前に今のマンションに引っ越して以来、靴箱が頭痛の種だった。高さ170センチほどあり、もちろん、靴箱だから玄関の内側に設置されている。この靴箱を見るたびに、まざまざと見える。地震の時にひっくり返り、ドアをふさいでいる姿が。ドアは内開きだ。自慢じゃないが力がない。どうやって元に戻せばいいのか、どうやってドアを開けたらいいのだろうか。

壁に靴箱を固定するしかないのだが、1本のネジを止めるだけで手が痛くなる場面をつい想像してしまうと言うか、まあ、体験上、1本の半分で撤退してしまうことが多いのだ。全く、何という軟弱な女だろう。

役に立つ男手のない家なのに大工道具は一式揃っている。外国から引き上げる際には、自宅を売ってきたのだが、その際、家中のペンキ塗りと壁紙張りをすべて一人でやった。大学の期末試験をこなしつつ、3人の子供の面倒を見つつだ。若さってすごい。怒りの馬力も加わっていたのだろうねえ。この家に引っ越してきたときにも台所は自分でペンキを塗った。大工仕事はキライじゃない。ただ、力がないのだ。

とうとう仕方なくネジ回しでネジを締め始めた。やっぱり1本でギブアップ。道具類を眺めていて、とうとう電動ドライバーを使おうと決心がついた。自分の力が弱いなら機械の力を借りるしかない。これまでもネジを外すときに使っていたが、ネジを締めるのは最初のネジが宙を飛んでいって以来、怖くて使ったことがなかったのだが、背に腹は代えられない。

やってやろうじゃないの。一人では移動できないとほぼ諦めていた巨大な脚立を運び出し、よじ登って、電動ドライバーを振りかざした。1本のネジはふらちにも飛んでいったが、6本をちゃんと締めることができた。エライ。私はエライと自分を撫で撫で。

やれることが日々少なくなってきているような気がして心がしなびてきていたのに、まだやれることがあるじゃないの。必要なのは小さな勇気だった。できの悪い息子に乾杯。

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最大級という触れ込みの非常に強い台風18号は、心配されていたような大きな被害を出すこともなく、北の方へと去っていったが、皆様、ご無事でしたか?

北海道に転勤したばかりの娘からは、荷物に埋もれ、テレビも接続しておらず、新聞もまだとってないので、「台風って来るの」などと台風が東京の交通網をずたずたにして去っていった後にとぼけた電話があったが、知らないで外に出ると危ない。今回も4人の犠牲者が出たが、安全な場所にいれば助かっていたはずだ。情報は命、情報を伝達するものは命綱だ。

今頃とぼけたことを言うのは、娘に似ているせいではない。外を大風が通り過ぎるころ、風邪で寝込んでしまっていて、起き上がってこれを書き始めた頃に急ぎの仕事が入り、3日ばかりの熱の後でそうでなくても弱い頭がますます弱くなっていて、ワシントンに金曜日の夜までという納品期日をああ、土曜日中なのね、と思い込み、納品した後にはっと気づいて、どしんと落ち込んでいたからなのだ。あーあ。

占いはともかく、バイオリズムとか、運気の上げ下げはあるのかもと、心身が弱ると思えてくる。道を歩くと野球のボール(それも硬球)が転がってきて足に当たったり、棚の片隅から保存も冷蔵と指定されたドレッシングの瓶が出てきたり、冷蔵庫の中から、生ものの大きなラベル付きの袋入りお総菜が出てきたりするのは、単に動きが鈍くなっているだけなのか、呆けているのか、運気が下がっているのか、どう思ったら一番気分が上向くだろうか。

このところ暗いところでは目の中を稲光が通過するのが見える。硝子体という目の中の膜がはがれ落ちているのだという。物理的なはがれ落ちるということが電気的に光りに感じるのだそうだが、面白いものだ。最初は明るい場所でもびっくりするくらい強く明るい白い光りがフラッシュのように見えていたが、少しずつ弱くなり、今や線香花火くらいに落ち着いてきているが、これもなんだかなあ。

頭痛もあって緊急にCTを取ったのだが、ほんの数年目に数の子みたいにぎっしりと言われて喜んだのも今は昔、年相応に萎縮しているらしい。萎縮していてもちゃんと機能する場合もあるのだ、脳は不思議なんだと、私の愛しいニューロンがせっせと枝状に突起を延ばして素敵な樹のように育ち情報を伝達している様子を想像しようとしているのだが、1日5000個だかの細胞が死んでいくのであれば、一生、頭の中でも自転車操業が続くのねと、なかなか鼓舞するのも難しくなってきた。

若い頃、私の座右の銘は「悲観は感情、楽観は意志」というものだったが、極限まで楽観主義を貫いてきた最近になって、「悲観は理性または考えすぎ、楽観は馬鹿または用意の先延ばし」と思えるようになっている。達観への道は遠い。人生50年の時代であれば、とうに迷うことなく、心穏やかな境地に達しているはずなのだが…

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佐野洋子のいわゆる「チューインガム」のような状態になって、ぐったりと何をする気力もなく、振り回されっぱなしだったものがようやく元気を取り戻しつつあるとおもったら、今度は仕事が切れた。やっぱり人生はうまくいかないようになっているのかもしれない。あるいは大きな目で見れば、のんびりと「チューインガム」状態を楽しむべき時期なのかもしれない。

そういえば、昨年の今頃、都美術館のフェルメール展に行ったのだった。昼少し前だったが、拍子抜けするくらいすいていて、行列もなく、ゆっくり鑑賞することが出来た。その中に「マルタとマリアの家のキリスト」が展示されていた。marikoさんが、マルタの話を書かれていて、なぜキリストがキリストのために食事の用意を忙しくしていたマルタではなく側で話を聞いていたマリアを褒めたのか私も合点がいかなかった後なので、そうか、これがマルタとマリアかと眺めたのだった。

で、このマルタの話が尾を引いていたのだが、先日、突然、当たり前だと腑に落ちた。ずいぶん、頭の働きが悪いことだが、要するに、話すことを楽しみに誰かに会いに出かけて食事時に彼女がひたすら料理を作っていて碌に話が出来ないと、何のために出かけてきたのか、彼女は客を歓待したことにはならない、そういうことだろう。キリストの血であるワインと、肉であるパン、それとチーズだけぽんと出して、横に座っていれば良かったのだ、というのが異教徒である私の考えだけど、もっと深い話なんだろうなあ。

昨年年初には改装オープンしたばかりの東京大丸の目玉の「ベルエポックの輝き」展(多分)へも出向いた。どたばた続きで、時間の観念がすっかり飛んでいるのでよく分からないが、先月だったか、国立新美術館の「ルネ・ラリック展」に行ったのだが、大丸の時の方が美しいものが多かったような…大丸の展示には北沢美術館のものが多数出品されていて、キッツの株主には美術館の特製カレンダーが配られるということを知り、カレンダーが通販では品切れで手に入らなかったので、一時はカレンダーほしさに、安くなっていることもあり真剣に株の購入を考えたほどだった。まあそのときに買っておけば2倍ほどに上がったようだが、それにしても私は馬鹿だねえ。

昨年はもう1つ、柿右衛門と鍋島の素晴らしい展覧会を出光美術館で楽しんだ。この展覧会では有田と伊万里の位置関係を地図で示していたので、大河内山と有田が鉄道で行けば恐ろしく時間がかかるのに直線距離では近いことが示されていて長年の疑問が解けた。今頃書くのはなんだけど、ここで展示されていた鍋島は質、量共に最高と言っていいほどだった。実に、実に美しい大皿がいくつかあって圧巻だった。ちょっと前、松濤美術館に柿右衛門展を見に行ってなんだか少しがっかりしたほどだ。良いものを見たり、おいしいものを食べたりすると、次回にはどうしても、もっともっとと欲張りになる。困ったものだ。

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先に、娘が豚フルと誤診された話を書いた。コメント欄にやはり誤診されて肺炎まで進み入院した知人の話をmarikoさんが書いてくれ、さらに、仕事先でも誤診の話が話題になった。また、blackさんによると、ブタフルと言われるなかに、別の病気があるのは医療系ネットでも警告されているらしい。どうやら検査薬の不足がかなりひどいらしい。また検査の出来ない診療所もあるらしい。

それというのも、私たちがたいした熱でもないのに医者に駆け込むから、本当の重症患者が長時間医療機関で待たされたり、検査薬がなくなるという事態になってしまうのではないだろうか。新型インフルエンザはごく軽いか重症化するか、どうも二極端になるようだ。多少の熱の場合、家で3日ほど寝ていれば治るのだから、なるべくそうしようよ。

というのは、怖い論文が出たからだ。5号館のつぶやきさんのところで紹介されているように、「タミフルがカモの泳ぐ京都の川で検出された」というのだ。

今年の第5週目に検出された最大300ng/Lくらいの活性型タミフルの濃度はもしもカモなどの体内に取り込まれたら、トリインフルエンザに対する抗ウイルス作用が発揮される濃度だそうで、要するにトリの体内でインフルエンザウイルスがタミフル耐性になる可能性のある濃度だということです

どういうことかというと、京都の鴨川、桂川の排水処理された水に、人の体内を経由したタミフルの成分が、新型インフルエンザ流行前の時点でさえ、タミフル耐性型のインフルエンザウイルスとなりうるほど多量に存在しているということだ。

つまり、自分で自分の首を絞めつつあり、豚フルにかかって苦しいヨーとなっても特効薬のタミフルが効かないことになるという恐ろしい話なのだ。もちろん、調査した鴨川・桂川にだけタミフルの成分が溶け出しているわけはない。日本全国津々浦々河川がタミフル漬けになりつつあるということだろう。

世界一クスリ好きな国民性というのもそろそろ返上し、多少の熱くらいなら家で寝ているようにしないと…

返上すれば、医療費の問題も、医者の過剰労働も、たらい回しの問題も、すべて解決するんだけどなあ。アスピリンを飲んで寝ていなさいという医者は、いないよなあ。

そうそう、つぶやきさんによれば、排水にオゾンを吹き込むことで、OCを不活化できるそうですよ。オゾンってなんか、偉大ですねえ。

偽メール事件で後先考えず威勢良く突っ込んでいって玉砕し、党首を交代したという前歴のある前原大臣が、マニフェストに書いてあるからと就任早々、八ツ場ダムの建設中止をぶち上げた。今日は、高速道路を一部凍結して、9000億円を削減というニュースも流れた。

若いよね。格好いいよね。さすがchangeだと応援したくなる。一度予算が付いたら何でもそのまま、情勢が変わっても遂行するというおかしな官僚の姿勢に物言いつけるのは非常にごもっとも。経済も情勢も、環境も変わるのだからそれにあわせて変えなければならない。当たり前だ。おまけに、八ツ場ダムについては、私が一応忘年会要員としてだけだが加わっているグループもだいぶ前から活発に反対を表明していて、見学会など実施しているから、なるほどと思うところは当然ある。

しかし、しかし、しかしだ。いきなりこんな大きなプロジェクトを無駄だからと中止しても良いのは、あるいは中止すべきなのは、景気が安定している時だけではないだろうか。今、ダムや道路をすでに予算に入っていたものまで中止すれば、一体どうなるのか、全く分からないのだろうか。昨年のリーマンショック以来、日本経済がどうなっているのか、世界の中の日本という意識が民主党の幹部連中には全くないのだろうか。喝采を浴びれば、日本がどうなっても良いと思っている?友愛でお腹が一杯になるとでも?

ニューディール政策については中学校の教科書にも確か載っていたぐらいだしみんな知っているだろう。その一環と言われているのがフーバーダムだ。ルーズベルト就任前に着工されたと言うが、大恐慌のすぐ後の着工だ。もちろん、公共事業だけでは国の経済を浮揚することが出来ず、結局第二次大戦の特需まで持ち越したことは分かっている。しかし、公共事業である程度のことはできる。穴を掘って埋めるだけでもそれに伴い器具、工具、設備・機械類への需要と職が発生する。私のように生半可な知識しか持たない者にも自明の理に思える。

大恐慌時のフーバーダム建設と第二の大恐慌と言われる現在のダム建設中止。この違いはどう作用していくだろう。今は、無駄に思えても、敢えて需要と職を作り出す時期のはずだ。日本経済は昨年の麻生政権による経済てこ入れで、ようやく息をつきかけたところで、大事なところだ。実のところは、今年の方が昨年よりも企業にとって辛い時期ではないかと思う。こんな時に、なんだ。それも、公共工事を止めて、国民にばらまく?馬鹿言うんじゃない。使ってしまったらおしまいじゃないか。それもその先が心配で貯め込む人の方が多いだろう。で、その後は?ダムや道路建設に必要だった設備・機械類、労働力が不要になり、利益がその分減り、就業者も減り、当然国庫への税収入も減り、その後は、どうやって困った人たちを助ける?

さらに、もう一つダム建設中止について別の反対理由がある。昨今の気候変動だ。原因については異論もあるようだが、気候が変動しているのは確かだろう。各地で洪水を引き起こすかと思えば、一方で砂漠化も進行している。

21世紀は水の世紀、つまり、水の奪い合いが生じるとかなり前から言われている。今、日本は水に困っていないように見えるが、これがいつ逆転するかもしれない。ひどい日照りが続くかもしれないあるいはこれまでに経験したことのないような大洪水が発生するかもしれない。今までの常識が通用しなくなる、それが気候変動だ。景気に一役買うことが出来、将来の国民の安全のための水瓶となり、電気も作るというのであれば、しかも地元民が賛成しているというのであれば、無駄の排除とか節約というのは、即刻中止する理由にはならないと、私は思う。

ところで、日本について、長らく、経済一流、官僚二流、政治三流と言われてきた。だからあまり大きな変化を引き起こさないような政治家の方が日本全体にとって都合が良かったともいえる。民主党の政策もあり、日本が破産するという記事も海外では出始めた。このままじゃあ、そうなる。やめてくれー。

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