あんなこと、こんなこと。どんなこと?

自分の言葉をしゃべりたくなった翻訳者のきままな独り言:多様だから価値がある。反論、異論大歓迎

2016年04月

原発要らないと即座にはっきり言えたらどんなに良いだろうと思う。

ウン十年前、原発反対の署名運動をした。環境問題にも取り組んできた。その上で、原発は必要悪だと納得した。電気がなければ日本は1日もやっていけない。放射線で1人も死ななかったが、真夏に都会で電気が数日止まれば数万人の死者が出てもおかしくない。農業も電力なしでは成り立たない。電気がこなければ水もでない。

原発が必要だった理由の1つが電力の安定供給だ。

石油原産国に振りまわされるのを避け、安定した電力が供給されなければ、近代工場など操業することは不可能だ。石油ショックの際の騒ぎも覚えている人は多いだろう。堺屋太一の「油断」を読んで、ありうると鳥肌が立った。第二次世界大戦のそもそももも石油が大きな原因の1つだと聞いている。

太陽光発電など自然由来の電力は3.11の後、急ピッチで伸びているが2013年現在でまだ2.2%に過ぎない。つまり今でもまだ微々たる割合に留まっている。その上、パネルは地震で壊れても発火するし、自然破壊ももたらす。また日本のように台風、大雨などに絶えずさらされる国では安定した電力を太陽や風などに頼ることは出来ない。

化石燃料、特にコストの低い石炭での火力発電所の建設も進められているが、世界では石炭はCO2を排出し、空気を汚染すると禁止の方向への動きがある。おまけに、中国などの電力消費が増大したあおりで石炭輸出国だった中国は輸入国に転じ、受給が逼迫、コストは増大してきている。

京都議定書での約束、その後の協定で、日本はCO2排出量を2030年度に2013年度比▲26.0%(2005年度比▲25.4%)の水準まで削減することを約束している(環境省データ)。できなければ巨額の賠償が待っている。途上国から排出権を購入したりもしているが(ここでも多額の資金流出)、すでに乾いた雑巾を絞ると言われるほど省エネに取り組んできたその上だから不可能だというのが多くの見方だ。つまり歳出が大幅に増加するだろう。高齢化による福祉関連費用の増大に加えてだ。

原発を止めたことにより、東日本大震災から4年間ですでに11.5兆円が煙となった。地震対策、福祉費用、高齢化・少子化対策、その他諸々に有効活用できたかも知れない巨額の資金が煙になったのだ。この先も同様に煙となる。

個人も企業も省電力を目指して頑張っているが、まだまだ道は遠い。私事だが311以前と比べ電力消費量は2割ほど減少したが、これ以上の削減はもう無理かもしれない。

経済産業省の「エネルギー白書」をベースに書かれた日本の発電力の供給量割合[最新版](火力・水力・原子力・風力・地熱・太陽光等)に詳しいので関心がある方は参照していただきたい。

ここに中国問題が加わる。
南沙諸島、西沙諸島の領有権を主張し、すでにミサイルを配備し、滑走路も完成している(2月17日付BBC)。
中国は国内問題が爆発寸前と言われ、そのようなときには外にたいして攻撃的になるのが常で、周辺諸国との緊張感が増している。

このBBCの地図を見れば一目瞭然だが、これらの基地は日本向けの石油タンカー等、物資運搬の航路に当たる。つまり、何かあれば、石油の輸入がたちまち止まるのだ。そして中国は沖縄でさえ元は自国領土だったと公然と口にするほど攻撃的だ。

福島以来、原発が怖い、地震国でしかも活発化している。心情はよく分かる。私だって怖い。

しかし、福島原発は地震では壊れたのではない。津波による電源喪失で水を循環させることが出来ず爆発した(福島第一原子力発電所−WIKI)。替えの電源を確保できた福島第二は問題を起こさず避難民を受け入れた。
なぜ代わりの電源がすぐに入手できなかったのか。

福島第一原発が米国のGE製だったために、すぐには取り寄せられなかったのだ。もちろん、あの津波の惨状で道路は寸断、がれきが山積だったこともあるが日本製であったらもっと早く入手できただろう。ではなぜ米国製であったのか。

その頃生じていた激しい日本叩きと関係があると私は憶測している。米国から何か購入する物がないか日本から買い物の使節団が渡米したこともある。私がいた某都市では日本人と間違えられた中国人男性が殺害されるという事件も生じた。多数の米国企業が競争に負けて苦境に立たされていたためだ。

電源が喪失しなければ、爆発は生じなかった。そして電源問題は解決されているし、耐震対策も、地質調査も新たになされた。

また、停止するだけではリスクは同じだ。
点検中で分解停止していた4号機が一番危ない状態に陥ったという。
廃炉には取り出したプルトニウムの処理などの困難な問題がつきまとう。ならば古くなるまでのある程度の期間、使用した方が合理的ではないか。

さらに、原子力関係は裾野の広い分野である。関連企業も関連技術も多い。日本には今まで蓄積してきた多くの技術があるのに、それがなくなったら、この先の廃炉に至るまでの期間の点検、メンテナンスなどの技術者の育成はどうなるのか。

また周囲には大量の原発を抱える国が存在する。例えば、韓国は30基といわれ、原発がクリーンなエネルギーを創出するからと中国は270基を計画・建設している。これらの国での管理はどうなっているのか。ただでさえビルや鉄道の崩壊や事故の多い国なのに、非常に怖い。日本の技術で助けられるかもしれないのにとも思う。

以上を考え合わせると、順次、減らして将来は無くすにしても、八方ふさがり。当面、原発は動かさざるを得ないとしか思えないのだ。

尚、人それぞれ、考え方が違うから面白いと思っています。イデオロギーに偏らない異論、反論がある方、どうぞ。

お嫁さんの実家が震源地に近い新八代にあるのでどんな大変なことになっているかと心配していた。

実家のお父さんは入退院を繰り返していて無職、お母さんが働いて支えている。失礼だが、かなり内情は困っているような気がする。近くには断層があるようだし、今回の連続した地震で北東方向に10キロ伸びたとか、活断層が27キロ動いたという恐ろしい話だし、この先、どこが動くか分からない。

道路は寸断しているのだろうか、どうなんだろう。逃げられるのなら少々カンパするから上京するようにとお嫁さんのSちゃんに伝えていた。

息子の所は2LDKだし、押し出されてウチに来ることになりそう。で、私は押し出されて下の娘の所だなと覚悟して、下の娘に泊めてねと前もって頼んだりしていたのだが。

さっき、Sちゃんに電話をしたら、お母さんは、仕事が忙しくてそれどころじゃない、上京しないよと言ったという。

ああ、良かった。仕事が出来るほどの状況なんだ。仕事には車で行っているので道路状況も悪くない場所なんだ。一安心。良かった、良かったを連発していると、

お嫁さんは末っ子の3歳児を医者につれて今帰っているところ。昨日から吐いて大変なんだと。

やれやれ、お正月過ぎから次々に3人の子供プラス息子夫婦は順繰りにおたふく風邪、インフルエンザ、普通の風邪と罹ってきて、ようやく落ちついたと思ったら今度はお腹の風邪だという。あーあ、マスクしろと言われたけど、私もうつるのかなあとSちゃん。あーあ、上の二人もうつるのかなあ。

子守に狩り出され、私もうつるのかなあと心の声。すっかり安心とはなかなかいかないようだ。

[追記あり]区の防災メールを受信する設定になっている。

寝ていたら、次々に受信の音が鳴り、寝ていられなくてとうとう起き出した。

何事かとテレビを付けたら大変なことになっていた。

14日夜の震度7の熊本県での断層のずれと見られる激震が本震だと思われ、その割には強い余震が何度も続くと思っていたら、午前1時25分頃の熊本県熊本地方での震度6がどうやら本震だったらしい。マグニチュード7.3いう巨大地震である。

どうやら震源が南に移動しているらしく、南阿蘇地方に被害が出ている。書いている側からTVからは緊急地震速報が次々に流れてくる。範囲も広くなっている。断層に沿って動いているのかも。

前日の地震では震度の割には被害が少なく、局地的な被害に留まっている、津波も発生していないと、一旦は安心したのだが。大きな断層のずれだとすれば、まだしばらく続くだろう。実はこれが日向灘を震源とするM.8.7の巨大地震の前兆ではないかという説を、昨日、読んで少々嫌な気がしていたが…。

熊本辺りは地震が少ないと思っていたのだが、災害はそれまで被害のなかった空白地域を狙ってやっているような…。

大規模な改修が終わって間もない熊本城が14日の地震で石垣などに大きな被害を受けたのだが、今日の地震で更に被害を受けているだろう。

地震国の宿命ではあるのだが、日本中、どこにも逃げようがない。

出来ることは自分の身は自分で守れるよう、整え、備えること、地震が生じたら、隣近所と協力して出来る限り助ける側に回ること、そしてデマは流さないということしかないかも。そして明日は我が身なのだからしっかり寄付しよう。

これで当分、外国人観光客の雪崩のような勢いは抑えられ、爆買いもなくなるとなれば、浮揚しかけている景気もどうなることやら。明日月曜日の日経平均は大きく崩れるだろうな。

朝になったらお嫁さんに実家のご両親にしばらく上京してもらえばと勧めてみるつもりだ。これが本震なら1,2週間もすればある程度は落ちつくだろう。

八代市でかなりの規模の火災が発生しているようだ。あーあ。

[追記]専門家でさえ、この熊本地震には困惑しているようだ
リンク先のデータは専門的で私には手が余るが、眺めているとなにやら方向が見えてくる人もいるのでは?少なくともこの地震が複雑なメカニズムで動き、いくつかの活断層が活発化していることは分かる。いよいよ紀伊半島沖の大地震も心配しなくてはならない時代に入っているようだ。

熊本城の被害はひどいが、近くの永青文庫の美術品、文化財などは無事だろうか。多数の美しい古民家は無事だろうか。

2016041309490000散歩に出かけた。いつもの公園の桜並木、前々日まで華やかなピンク色だったのが緑一色になっていた。春の日は過ぎるのが本当に早い。若い芽が音を立てて伸びていく音が聞こえるようだ。

まだ桜が7、8分咲きの頃だったか、下の妹と娘と3人で母を連れ出した。娘がコーヒーとちょっとしたお菓子を用意し、暖かなベンチで、ゆっくり花見を楽しんだ。娘は母を連れて公園を散歩、私と妹はベンチでのんびりおしゃべり。今年も桜を目にすることが出来た。母も桜の季節を迎えられた。桜という花は不思議に人を考える人にする。

娘一家がドタバタと騒々しく旅立った翌日、今度は上の妹も上京し、姉妹3人で母を食事と恒例のカラオケに連れて行った。

ここのところ声が出にくくなっている。秋口には喉頭癌の兆候かも知れないと検査を受ける予定だったが忙しさに紛れて放置したのだが相変わらず、声が出たり出なかったりしている。母も声が変なのとか、声が出ないと一頃しきりに訴えていた。喉の老化なのだろうか。母には、だからちゃんとリハビリを受けなさいと言っているでしょ、喉も筋肉なんだからと言いつつ、自分はまだそんな歳ではないと思うのだから、ちゃんちゃらおかしいね。

で、歌うのは嫌だ、欠席しようと思っていたのに、だから一切選曲しなかったのに、私の好きそうな曲ばかり妹たちが次々に入れるので、仕方ない。ついマイクを握ってしまい、妹たちにお姉ちゃんばかり歌っていると言われてしまった。母と私の声が出ない二人のデュエットなのだが母はマイクも拾えないほど小さな声で、所々を周回遅れでつぶやいている。

カラオケ大好きな妹たちがマイクに飛びつかないのでおかしいと思っていたら、この二人も最近喉がおかしいのだという。やれやれ、花の三姉妹もいよいよ(とっくにという声もあるが)三婆となりつつあるのだ。

帰りに近所の満開を少し過ぎた桜並木のトンネルをくぐって通って帰った。今年の桜もお仕舞いだと思ったら、どっこい、数本の八重桜が開き始めていた。母は93歳になった。頑張るんだよ。って、母が死ぬまで死ねない。私、いくつまで頑張れるんだろう。

娘一家がいなくなり、明日は妹が米国へ帰っていく。毎年、娘たちと妹とは同じ頃にかちあうのでこちらは大忙しとなるが、そして誰もいなくなりと毎回アガサ・クリスティの「そして誰もいなくなった」を思い出し、数日間、淋しいよと騒ぎつつ、物事は収斂していく。

まるでドボンと石が放り込まれ波紋に揺らされそのうちさざ波一つ立たなく無くなる古い小さな池のようだ。私。

娘たちは、妹も、あなたが静かな小さな池の訳ないでしょと一斉に口撃し始めるのは分かっている。

曾野綾子さんによると、「老年は徹底して一人で寂しさと対面すべき時なのだ」そうだ。

ワタシの場合、しばらくおしゃべりをしないと、一人で寂しさと対面していると、いっそう痴呆が進みそうだ。痴呆の恐怖があるから騒がしくしているのであって、ワタシが黙ったらこれは痴呆が進んだか、鬱病のサインだから、娘たち、心するように。

娘一家がいた10日間、仕事もほぼ休んでいたが、数日間根を詰めたら、たちまち忘れていた目の痛み、不整脈が復活した。要するに楽しくしていれば体の不調はないということなのかもしれない。

しかし、仕事のない人生は今では考えられない。仕事があるから数日の休みが体のためになるということもよく分かっている。要はバランス。なかなか都合良く、良い塩梅とはいかないが、人生、最後に俯瞰すれば、すべてがうまくバランスが取れるものなのかもしれない。

さて、そろそろ避難させていた申告書類を掘り出すとするか。もともと見たくないものなのだから、どこに隠したか、それが問題だw。

2016040719140000爆弾低気圧のような娘一家は旅立った。

朝、雨が激しかったのでタクシーにしようと、2社に電話をかけ続けたがずっと話し中。

しょうがない。目的地はいつでも行けるような簡単な場所ではない。折り紙付きの過疎地なので出発時間に遅れるわけにいかない。

こうなったらと、5歳、8歳、10歳の悪ガキトリオを引き連れて駅まで行進した。超重量級の特大ゴロゴロを娘が引き、長男トモゾーはいっちょまえの巨大リュックを背負い、Rちゃんは自分の小さなスーツケースを引っ張り、私は5歳児の手を引いて、文字通りの桜吹雪の中を娘の後を必死で追いかける。5歳児は傘を振りまわし、水たまりを触り、娘に急げと叱り飛ばされていたのが、どんどん急いで進む娘に置いて行かれ、そのうち朝早かったので半分寝はじめたようで、なかなか前に進まない。引きずって歩く。重い、重い。

駅に着く頃には、滑って水たまりに3回尻餅をついた5歳児はお尻がぐっしょり、私は引っ張っていた右手の肘から下がぐっしょりと濡れてコートを貫通、セーターまで濡れるという有様。小さな子たちを連れて雨の中大荷物を持って歩くのはまさにちょっとした行軍だ。大荷物ごと満員電車に揺られ、紆余曲折はあったが無事に港に到着。降りしきる雨の中、船はドラは鳴らしたけど、たいした旅情もなくさっさと出て行き、私は取り残された。何だかなあ。

うるさくて、騒々しくて、散らかし屋で壊し屋の、寄ると触ると小競り合い、大競り合いを始めるギャングたち。一番の散らかし屋で文句言いの娘。ああ大変だった。ああ疲れた。ああ腹が立った。でも、ああ楽しかった。

一人で平和にゆっくり都会の温泉に寄り、一人で美味しい物を食べ、一人で帰ってきて、静かで平和な部屋で、娘たちの忘れ物をいくつも見つけ出し、障子の穴も6つに増えており、やれやれと言いつつ、ああ詰まらない。

娘一家は遠い遠い、今までいた南の島よりもっと遠くの南の島に行ってしまった。多分あと数年は帰ってこれないだろう。親の死に目に会えないぞ、コラ娘。そんな所に行くなんて。なんて奴だ。

若いとき私は1歳10ヶ月の息子と一緒に羽田を飛び立ち、10年も日本を留守にした。若いとき、親の気持ちなんて考えたことはなかった。前しか見えなかった。そんなもんなのよね。そうじゃないと駄目なのよね。

でも、ああツマラナイ。

仕事が詰まっている。明日は妹たちと母を連れ出すことになっている。さっさと仕事を始めねば…。

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