寒い冬だったのに、ベランダのチューリップが十数本芽を出している。数日の内に花が咲き始めるだろう。
今朝は盛大なくしゃみと共に目を覚ました。
空気はもはや春。外はぼんやり霞んでいる。くっきりきっぱりとした富士山ともしばらくはお別れ。
そういえば小学4年生の孫娘から手作りのチョコマフィンなどとカードをバレンタインデーに貰ったからおかえしを買いに行かねば。お花は息子から。
先月の話をせめて2月中に書いておかねば。
末近くに娘と一緒に骨粗鬆症の検診へ。後日同年齢よりほんの少しだが上の判定を得たが、45歳にして手術の後遺症で85歳と判定された過去があるのでとても嬉しい。
検診後、娘夫婦と夕食を食べる約束だったが、ついでにと昼食も一緒に食べることになり、娘が食べたいという九段の寿司屋へ。ここは土曜日はコースしかしておらず、夕食は重いものを予約してあったので近くの洋食屋へ。ぶらりと外に出たら、目の前にびっくりな博物館が。
目立たない普通のビルの一角に博物館と看板がでていたのでなんだろうと思ったら、戦傷病者の資料館「しょうけい館」だった。3人で入ってみる。私はどうも感情移入が激しい人間のようで辛い小説を読むとしばらく立ち直れないほど気分が落ち込むので、警戒して出口からこわごわ中を覗き、最後の部屋が写真などで大丈夫そうなので入る。
叔父は南方で戦死しているし、軍医だった伯父は満州に長期間抑留され最後の引き揚げ船で引き上げているし、元亭は昭和20年8月30日に満州で生まれ、姑が決死の努力でなんとか日本に連れ帰ってきている。あの頃、どこの家でも家族や知人に生じていたかも知れないことだが、改めて歴史の流れを感じる。
そこで新たな衝撃の事実を知る。昔、街角で白い着物を着てアコーディオンを鳴らしたり、地べたに座って寄付を求める手や足のない人たちが大勢いたことをうっすらと覚えている。母が何回か寄付したのを覚えているが何もしらなかった。なぜ自分たちの意志ではなく命令で国のために戦った人たちが大勢、乞食の真似事のようなことをしなくてはいけなかったか。
戦後、GHQが旧軍人への軍人恩給廃止の命令を出したのだ。まともに職に就くことの出来ない怪我を負い病気となっていた旧軍人にとって恩給は命綱であったに違いないのに、廃止を命令するとは。どれほどの困窮を忍ばなくてはならなかったのか。胸が痛くなる。昭和28年になってようやく復活されたが。
現在、水木しげるの人生という本人の絵による企画展も行われている。
九段界隈をゆっくり散歩するのは初めてだったかも。皇居の公園を抜けて近代美術館を目指したが途中でふたたびひっかかった。国立公文書館なる建物でここもまた初めての場所。太田道灌と江戸と言う企画展が開催されていたが、ここにはなんとポツダム宣言の原文や明治の日本帝国憲法、日本国憲法まで展示されていた。娘たちと誰の署名が上手か下手かと馬鹿なことを言い合って楽しんだのだが、ジェフリー・アーチャーに独立宣言が盗まれて騒動になるという筋の著作があって憲法の原文というのは大変なものだと思っていたのが目の前に原文がガラスのケースには入っているとは言え無防備に飾られているのを見てちょっとびっくり。平和な国日本だ。
国立近代美術館で「熊谷守一 いきるよろこび」展。作風の変遷が見られて面白いし、展示物が多く充実していたが、私の狙いはここの所蔵品。国立と言うだけあって素晴らしい作品が多数所蔵されている。娘たちに藤田嗣治のアッツ島玉砕の絵を見せたかったが見当たらないので係員にどこにあるか聞いたのだが、恐るべき事に彼の名も知らなかった…。自分の仕事はもう少し大事にしようと言いたい。
目的地、飯田橋に移り、二人に美味しい天ぷらのコースをご馳走になったのだが、うかうかと若い二人にくっついていったばかりに1万5000歩を越え、翌日家にこもることになった。情けないなあ。