
幾人か、フォローしている人も出来、PCを立ち上げるとその人たちが私が寝ている間もせっせとつぶやいたものがざあっと、水門を開けた小川のように雪崩れ込んでくる。真偽取り混ぜ、情報の洪水という言葉の意味が良く分かる。ほとんどはどうでも良い話だが、たまに引っかかる話がある。こうやって中毒になるのかもしれない。
その一つ、宋文州という人の「相撲。暴力団関係の建物を知らずに借りたから罰則。野球もあれこれ暴力団関係を制限。だったら暴力団を取り締まればいいのでは。「暴力団」という名の組織を公式に認可する。昔から不思議。」「昔学生で札幌にいた時、怪我した暴力団の若者を部屋に泊めたことがある。とてもいい人だった。でも先輩と先生に怒られた。公安と暴力団が皆お友達。差別しながら公式認可。差別をやめるか、取り締まるか。メイカクにしないから皆メイワク。」とのつぶやきが流れてきた。
暴力団を取り締まるのは当然だが、人として関わっては駄目なのだろうか。怪我をして困っている人であってもまず素性を聞けということになる。医療関係者であっても暴力団員に関わってはいけないのだろうか 。暴力団員だから差別をして良いのかとか、差別することで余計団結し先鋭的になるのではないかとか、そこでしか生きられない事情というのはあるのだろうかとかとか、考えても良く分からない。長年のしがらみも絡まり根が深そうである。私には分からないが、やはり人として、怪我をしている場合放置は出来ないだろう。
そこで、ここ数日来頭を占めているヴァンパイアの話になるのだが、様々な恐ろしいシーンを超えて、人に考えさせる問がある。人を殺して生き血を吸うしか生きる道がないという少女の、いじめた少年を頭の中で何度も突き刺して殺した少年とどのように違いがあるのかという問いに答えられない私がいる。単に少女に死ねと言えばいいのだろうか。 ここなのだ。この問があるから、この映画はいくつもの賞を受賞したのだろう。
人を殺してはならない。一番の基本だ。だが、生きるためには他の命を食べなければならない。牛を、豚を、鶏を。そのため菜食主義になる人たちもいる。では植物は命ではないのか?あらゆる人が、生物が、自分が生きるために何かを犠牲にしている。原罪とはこういうことなのだろうか。だから、この映画を思い出したくなかったのかもしれない。しかし、私に出来ることはといえば、ありがとう、戴きますと感謝して、死ぬまで生きるしかない。他の犠牲の上に立つ命だから粗末に扱ってはいけないということになるのかもしれない。自分の命も他者の命も。
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米国でツイッタが廃れ始めたのは140字制限が大きいと思います、倍の280文字か日本語の140字と同じとされる350字にすれば復活すると思います。